にしても、この事件は、本当はどういうことなのかしら、と思いつづけている。日本の民主革命の過程において、そのひとこまを占めたこの事件のふくんでいる意味は、小さくもなければ、単純でもない。政府のこしらえている特別考査委員会というものは、その委員会での討論ぶりを見てもわかるように、特別[#「特別」に傍点]な考慮のための委員会の本質をもっているから、政党としての共産党は、その応答ぶりにおいて、必ずしもいつもわたしたちの希望するだけ率直ではあり得ない。はためには、いつもどこか肩を上げたものの云いかたをしているように見えないこともない。そのことは、正直でつましい市民感情の一部には好意的な印象を与えない。――特別考査委員会というものは、この一つの効果だけでも、反民主的な政府の方針に少なからず用立っているわけである。
 一人の市民として、作家として、わたしにもいろいろ心もちがある。けれども、『文学新聞』にのった宮原子之吉氏の話は、わたしを、決定的な力で、一つの抵抗の杙《くい》につないだ。
「でっちあげるのはわけはない」このひとことに、血のかたまる野獣性がある。日本の十数万人の旧治安維持法の被害者はもちろん、涜職、詐欺、窃盗、日本の法律によってとりしらべられたすべての人々で、刑事や検事からこの言葉をきかされなかった者はおそらく一人もないだろう。法学博士で大臣だった三土忠造でさえ、一九二九年か三〇年ごろ涜職事件で検挙投獄され、公判廷で奮闘して無罪を証明したあとで『幽囚記』という本をかいた。その中で政治的な事件の本質と、検事のとりしらべの強権にふれている。
 三鷹事件が、多くの良識ある人にとって不明瞭な性質のものとしてうけとられているからと云って、検事が「でっちあげ」ていいというものだろうか。わたしたち一人一人が、どんなかのゆきがかりで、何かの不明瞭ないざこざに巻きこまれたとき、「でっちあげるのはわけはない」と検事に云われて、納得していられるだろうか。「でっちあげるのはわけはない」という非人道的な発言が人民の運命に関して権力の使用人たちによって云われている事実を、人民としてわたしたちは許しておくべきではないと思う。人々が誠意をもって、少数者の利益のためにでっちあげられる戦争に反対を声明し、日本の人々をこめる世界の人民の平和を護ろうとするならば、こんにちの日本の現実において、もっとも発端的
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