は、それらの同人雑誌が当時にもっていた何かの前進性、敢て試みる文学上の何かの勇気があったわけであった。
小原壮助は、ソヴェトに同人雑誌を発行する自由がないという面だけにひどくとらわれて、いちずに、「同人雑誌こそ新しい文学の唯一の温床」と強調している。しかし、新しい文学[#「新しい文学」に傍点]とは何であろうか。「バクロウが牛の掘りだしものをさがすように」ジャーナリズムに見つけ出され、製造された新人の多くが、本質的に新しい文学を創る力をもつものでなかったことを、火野葦平はむしろ、欣然として認めている。小原壮助の実体の明かでない同人雑誌尊重の論を、火野葦平の「同人雑誌本来の姿」に関する説明とあわせよんだひとは、「新しい文学の唯一の温床」たる同人雑誌が、もし火野葦平の考えるようなものであるならば、それは、全く「昔のとおり」文壇ギルドへの立ちがえりであり、先輩、後輩間の封建的な格づけに従属することであるのにおどろかされるであろうと思う。
三
現代文学は創作方法において、益々行きづまって来ていて、文壇とジャーナリズムの文学[#「文学」に傍点]意識では、打開するに道も見出しにくい有様になった。
一人一派的な文学上の独創性[#「独創性」に傍点]を求めて、同人雑誌によるとしても、徒労であるにすぎない。何故なら、こんにちわたしたちにとって最も重要なのは、戦後五年間の日本で、誰の目にもおおいがたくすりかえられて来た反民主的な諸力に対して、わたしたちの生活と文学は、どのようにたたかいつづけてゆくか、というプログラムをもっているか、もっていないかの問題であるから。最近数年間、労働者階級は、ともかく自分たちの階級として組織された闘争力をもっていた。階級の自主的な文化の課題として文学が語られていた。現在、この網目は、ずたずたに切られ破られつつある。集団として経済、政治、文化の問題をとりあつかい、より社会化されつつあった言説の反面に、同じテムポで成熟するひまのなかった新しい労働者階級の人間性――階級的人格形成の問題がのこされていることは、こんにちただ、文学の問題に止る現実ではない。
有形無形の集団力によって働いて来た生活が、孤立させられたとき、その心理は複雑で、多く自分というものの再発見、再確認が行われる。その再発見、再確認の過程で、その人の運命と階級の運命のために、どのように望ましい力として自己を再発見するか、ということは、簡単に保証できない。その人の階級的人間性が、どのように階級としての理由によって覚醒されているかということに多くの比重がかかって来る。階級の文学を、組合主義、目先の効用主義一点ばりで理解するように啓蒙されて来た人があるとすれば、その人は街の角々に貼り出されていた矢じるし目あてに機械的に歩かせられて来ていたようなものだから、一夜の大雨ですべての矢じるしが剥がれてしまったある朝、当然わが行手に迷う当惑に陥る。階級的人間形成の道としての政治、文学の教育は、つけられた矢じるしをたよりに、かけ声かけて走る人々ばかりをつくることではないわけだった。権力とその結托者たちの残虐性によって、どのような孤立におかれようとも、世界の人民としての階級連帯の感覚、その文学としての人民としての人民的世界性を見失わない一個の階級人として構成された存在、その方向へ自主的に発展してゆく可能を与えるものであるはずではなかったろうか。
現在民主的な新しい文学を念願して、そのために生活的にも文学的にも努力している人々の間に、いくつもの同人雑誌が発刊されている。最近出ているこれらの同人雑誌には共通な一つの特色が見られる。それは、これらの同人雑誌は、一九二五、六年ごろ川端康成その他十九名の同人によって発刊された『文芸時代』のように、「新感覚派」という一つの文学流派を旗じるしとしていないという点である。また「『戦旗』創刊と対立するもの」(伊藤整「新興芸術派と新心理主義文学」近代文学八月)として、『近代生活』『文芸都市』が、「非左翼的同人雑誌のうちの最も有力な作家を集めてつくった集団」を目ざして、創刊されているのでもないということである。特集ルポルタージュ「鋳物の街・川口の表情」「地の平和の緑樹園、安行植木苗木地帯を往く」などで、生活的・文学的感覚を社会的にひろめ深めてゆこうと努力している点で注目をひいている『埼玉文学』にしろ、同人たちは、より人間らしい社会生活の確保と、その文学の確立のために尽力してゆくという大きくて永続的な人民的努力のうちに、埼玉在住の人々の各種各様の文学的傾向と素質とをつつんで、民主的方向に発展させようと志している。会の運営は民主的な会議制を原則とすると明記していることも、旧い文壇の先輩、後輩のしきたりにとらわれたり、ひき[#「ひき」に傍点]にたよったりする文学的卑屈さを排そうとする性格をあらわしているように見える。同人雑誌であってもその中で積極的な能力を示す、人々のヘゲモニーのもとに一つのせまい文壇的流派にあつめようとするよりも、むしろ、これまで、より細分された文学愛好者グループとして、旧い文学と文壇潮流からうけて来ている個性の偏倚や文学観のかたよりを解放しようとする方向にある。一定の成功を示しているか、それともまだ緒についたばかりであるか、というちがいはあるにしろ、こんにち、人民生活の独立と自由と平和をねがって、文学もその心の叫びとし、行動と信じている人々の間で、同人雑誌は、少くとも在来の文壇とジャーナリズムの上に「老舗」たらんとする「文壇の登龍門」や「道場」ではない。[#地付き]〔一九五〇年十一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本文学」
1950(昭和25)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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