べれば、現代文学の傾斜が明瞭にわかる。そして、この「殺意」と「三木清における人間の研究」「たぬき退治」とは、それのかかれる精神の状況において連関がある。このような作品は、決して民主的な精神が率直に評価されている時代には書かれもしないしジャーナリズムが買いもしない。
文学に関心をもつすべての人々は、こんにちの日本文学の多くがこれでも文学であろうかという疑いを抱いている。人間として生きている何かの意味の感じられる文学をもとめている。小説は、退屈まぎらしによむものとしている人々でも、まずいタバコを軽蔑するように、どれもこれも同じようなジャーナリズム文学には、うんざりしているのである。
文学がボロイ仕事でないと理解されることはむしろ理の当然である。そして、商業主義と文学の修業とは両立しがたい本質の差をもっているから、金にならなくても、文学の勉強はやめられない意味で、同人雑誌への関心がたかまったことも、たしかに「わるくない現象」である。『新日本文学』の編集委員会は、原稿料の極端にやすいこと、或は金の出せないことについて、従来のような経済主義一点ばりで非難され、冷視されることも、いくらか減ってゆくかもしれない。
商品生産を目標としない文学の研究と発表場面がより増してゆくという点で、同人雑誌の活溌化は日本の現実のうちで何の非難されるところもないわけだけれども、火野葦平の文章をよんだ読者の心には、いくつかの疑問が生じはしなかったろうか。
火野葦平は、文学、出版の現象において老舗の権威が恢復され「昔にかえった」その一つのこととして同人雑誌の活溌化にもふれている。「昔にかえった」火野葦平の社会的よろこびの感情の底は深いものであって、この「文芸放談」第三回は、その点でつよく感じさせるところがあった。火野葦平が同人雑誌の活溌化にふれて語っている自身の、陰忍自重四年の間待った甲斐あるこんにちのよろこびは、いかにも意味がふかい。首相は朝鮮での事件を、「天佑である」とよろこんでいる。そのこころに通じるものがあるようで、火野葦平、林房雄、今日出海、上田広、岩田豊雄など今回戦争協力による追放から解除された諸氏に共通な感懐でもあろうか。
東京新聞にのった火野の文章のどこの行をさがしても、「昔にかえった」出版界の事情「老舗がのこっている」こんにちの状況に、最近三年の間強行されつづけて来た言論圧
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