会話をするのよ。私の声はよく徹るからきっと効果があってよ。私がね、一寸大きな声でカルピスが飲みたいな、というの、あなたが、もうないと返事をするのよ、そうすると、私がなるたけ、あっちの窓に向って、もうカルピスはないの? だって私もっと欲しいわ、とはっきりはっきりいうのよ、ラディオのアナウンサアのように」
「そしておしまいにJ・O・A・Kこちらは東京放送局であります? ハハハハ」
これは、愚にもつかないふざけだが、やかましさで苦しむ苦しさは持続的で、頭を疲らせた。暑気が加わると、騒音はなおこたえた。私は困ったと思いながら、それなり祖母の埋骨式に旅立ったのであった。
フダーヤは、別に何とも云ってはいなかったのに、わざわざ廻り道をし、僅かなつてで家を見つけてくれた。彼女の心持や、新しい一夏をすごす家についての空想が、穏かに幸福な希望を以て沈んだ裡に私の心を耀かせた。
私は、楽しみにして東京に帰り、家主から返事が来ると直ぐ鎌倉に出かけた。
大船という停車場へ降りたことのある人は知っているに違いないが、ここはおかしい停車場だ。東海道本線では有名で、幾とおりものプラットフォームには、殆どいつも長い客車、貨物列車のつながりが出入りしているのに、駅じゅうに赤帽がたった一人しかいない。しかもその赤帽である若い男は、何と呑気な生れつきであろうか。もう一つの特色として、この駅には、プラットフォームに現れる駅員の数より遙に物売りの方が多い。その沢山の物売りが独特な発声法で、ハムやコーヒー牛乳という混成物を売り廻る後に立って、赤帽は、晴やかな太陽に赤い帽子を燦めかせたまま、まるで列車の発着に関係ない見物人の一人のように、狭い窓から行われる食物の取引を眺めている。両手を丸めた背中の後に組んで。――
私は、荷物をフダーヤと二人がかりで細い砂利を敷きつめたプラットフォームの上まで一旦おろし、あちこち見廻してやっと見出したその赤帽に向って、頻りに手を振った。彼は、しばらく私どもの方を、意味のない眼つきで眺め、また、のっそり、弁当の売れゆきを見物し始めた。広々とした七月の空、数間彼方の草原に岬のように突出ている断崖、すべて明快で、呑気な赤帽の存在とともに、異国的風趣さえあった。
鎌倉は、海岸を離れると、山がちなところだ。私にとって鎌倉といえば、海岸より寧ろ幾重にも重なって続く山々――樹木の繁った、山百合の咲く――が、思い出されるぐらい。その山々は、高くない。円みを帯びている。それにも拘らず、その峰から峰へと絶えない起伏の重なりのせいか、或は歴史的の連想によってか、鎌倉の山は一種暗鬱なところがある。昔風な径路のついた山裾を歩いても、岩の間の切通しを見ても何か捕えがたい憂鬱めいたものが心に来る。それゆえ、鎌倉の明月の夜の景色を想うと空に高く冴え渡る月光に反し、黒く深く黙した山々の蹲りがありありと見えて来る。借りた茅屋根の小家は、明月谷にある。明月谷という名は、陳腐なようで、自然の感じを思いのほか含んでいる。家の縁側に立って南を見ると、正面に明月山、左につづく山々、右手には美しい篁の見えるどこかで円覚寺の領内になっていそうな山々、家のすぐ裏には、極く鎌倉的な岩山へ掘り抜いた「やぐら」が二つある。「やぐら」の入口の上に、今葛の葉が一房垂れている。野生のなでしこ、山百合が咲いている。フダーヤはその岩屋に入って、凄く響く声の反響をききながら、
「大塔宮が殺される時の声もこんなに響いたんだろうな」
といった。隅に、巨大な蜘蛛が巣をかけていた。その下の岩の裂けめから水が湧き出し、少したまっている面が薄暗い中で鈍く光った。――
大船へ二十何町かあると同じくらい海岸からも引込んでいるから、私どもの生活は、八月の海辺風物――碧い海、やける砂、その上に拡げられた大きな縞帆のような日除け傘、濃い影を落して群れる派手なベイジング・スウトの人々などという色彩の濃い雰囲気からは全く遠い。それどころか、明月谷の住人は、或る点現代というものからさえ幾分――丁度二十何町ばかりも引込んでいるようでさえある。ざっといって見ると、明月谷に他から移り住んだ元祖である元記者の某氏、病弱な彫刻家である某氏、若いうちから独身で、囲碁の師匠をし、釈宗演の弟子のようなものであった某女史、決して魚を食わない土方の親方某、通称家鴨小屋の主人某、等々が、宇野浩二氏の筆をもってすれば、躍如として各の真面目を発揮させられるだろうような性格で狭い谷間に暮している。その中に、ふと混り込んだ我々二人の女は――さて何と描かるべきだろう。……
最初から、この家に伴う強い魅力の一つであった釣堀で、フダーヤはよく釣をする。五十銭で買ってもらった釣竿を持ち、小さいなつめ形の顔の上に途方もなく大きい海水帽をかぶり――その鍔をフワ
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