フワ風に煽らせながら、勇壮に釣に出かける。彼女を堀に誘うのは、噂に聞いた鯉だ。誰も釣針を垂れないからこの堀には立派な鯉がいますよ、と或る人がいった。不幸なことに、彼女は鯉の洗いが大好きだ。
「さあ、今晩は洗いに鯉こくよ」
絶大な希望で彼女は出かけるのだ。私は、羨みながら机の前に遺っている。よほどして、日によると、数間彼方の釣堀から、遽しい呼び声が起る。
「おーい、早く、バケツ」
私は、あわてふためいて台どころに降り、バケツに水を汲み込み、そとへ駆け出す。水がこぼれるから早くは駆けられない。体の肥って丸い、髪をぐるぐる巻にした私は、ドン・キホーテのところへと憐れに取急ぐサンチョ・パンザのように、瘠せて、脊高く勇ましい彼女に向って駆けつけるのだ――フダーヤは始めから釣れた魚を放すバケツは持ってゆかない。何故なら、彼女は賢くて、いくら波々水を張ったバケツを傍に置いても、水がぬるむばかりで放つ魚は殆ど決して針にかからないことを知っているから。そして、またいつものっそりとしている私を、たまにびっくりさせ、駆け出させたのは衛生上にもよいと知っているから。――四間に三間ばかりの釣堀に、午後彼女の姿を見る――これは何でもない。朝少し早く姿を認めたら、それは、こうだ。シニョーリーナ・ドン・キホーテは、たださえその忍耐のゆえで褒めらるべき釣を、更に道徳的価値ある自己鍛練の方便としているのだ。彼女は、私より少し年上なだけ、少し早く眼を醒ます。私は眠い、眠い。部屋数がないから、彼女は早く起きても自分だけ自由な行動はとれない、そのうちに眠っていた時は何でもなかった朝おそい室内の空気は、醒めて見ると、何と唾棄すべきものだろう。そこで、フダーヤは癇癪を起して私を起してしまわないため、よい仲間という名を全うするため、海水帽の鍔を風にはためかせ、釣れぬ釣に出かけるのだ。
――今に、私どもがテニスの稽古をしはじめたら、また当分、中流的しかつめらしさが癖になった土地の人々にゴシップと笑いの種を与えることであろう。
このような楽しみのほかに、私には上元気の午後三時頃、酔ったようになって盛夏の空と青葉の光輝とに見とれる悦びがある。東京にいて、八月の三時は切ない時刻だ。塵埃をかぶって白けた街路樹が萎え凋んで、烈しく夕涼を待つ刻限だ。ここも暑い。日中の熱度は頂上に昇る。けれども、この爽かさ、清澄さ! 空
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