して来た。これを読むのは、どうせ文学がある程度までわかる人間だ。そういう態度だった。今日のプロレタリア文学批評は、読者大衆に、小説のよみかたに際して新しい文化的基準を与えるというところまで精力的であるべきである。
 さて、そういう親切な批評を書こうとするとまず、ある一つの作品の背景にある階級をひろく把握し、作品との関係を明かにして読者の眼前に展望させねばならない。
 作品が芸術品として成功していれば、それはどういうところで成功しているか。成功といってもどういう種類とどういう階級の標準によるものか。不成功とすれば局部的のものか、あるいは根本的のものか。なぜ失敗したか。
 失敗した作品でも見殺しにしてはいけない、いい芽をもっていることもある。そのものとして成功していても、未来の文化のために寄与する価値をもたないものもある。
 それらを、ごく具体的に、一般的に、実際生活と結びつけた見通しをもって話さなければならないのだ。
 書きかたも研究がいる。その文芸批評を読むと、もうそれだけで何か活々した熱と力と、広闊な新社会文化への輝きと期待とを感じるようなものがいるのである。

 プロレタリアの陣営からの批評は、階級的陣営が違うと、もういうことはきまっていると思わせる狭いところがあった。ある時は高飛車なところもある。
 ボルシェビキ的批評というものは、本質においてそうではない。
 どっちの陣営の作品でも、それをひろい客観的条件の前にはっきり浮き上らせて、見なおさせ、比べ、それが評価されるべき評価をうけていることを、静かにつよく感銘させるのが、本物の批評である。
 作品の欠点や、チャチなところだけをつまみだして、パンパンパンと平手うちにやっつける批評ぶりは、本当のプロレタリア的批評ではない。溜飲はさがるかもしれないが弁証法的でないし、建設的でない。
 大森義太郎氏の文学作品批評はきびきびしていても、そういう点でボルシェビキ的忍耐ある建設力を欠いているのだ。橋本英吉が『ナップ』へ三ヵ月ばかり批評を書き、個々の点では異論あるとしても、態度で、われわれに多くのものを教えた。[#地付き]〔一九三一年七月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七
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