きのうときょう
――音楽が家庭にもたらすもの――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年八月〕
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この間日比谷の公会堂であった自由学園の音楽教育成績発表会へ行って、それについての様々な感想につれて、自分たちが小さかった頃の生活のうちに、音楽がもたらしたあれこれの情景をなつかしく思いおこした。
もうふた昔三昔のことで、私が五つぐらいと云えば明治三十年代の終りから四十年代のはじめにかけての時期になるが、その時分うちに一台のベビイ・オルガンがあった。五つをかしらに三人の子供たちをそのぐるりにあつめながら、バラの花簪などを髪にさした母のうたった唱歌は「青葉しげれる桜井の」だの「ウラルの彼方風あれて」だのであった。当時、父は洋行中の留守の家で、若かった母は情熱的な声でそれらの唱歌を高くうたった。母自身は娘時代、生田流の琴と観世の謡とをやって育ったのであった。
九つになった秋、父がロンドンからかえって来た。その頃のロンドンの中流家庭のありようと日本のそれとの相異はどれほど劇しかったことだろう。父は総領娘のために子供用のヴァイオリンと大人用のヴァイオリンを買って来た。ハンドレッド・ベスト・ホームソングスというような厚い四角い譜ももって来た。ニッケルの大きい朝顔のラッパがついた蓄音器も木箱から出て来た。柿の白い花が雨の中に浮いていたことを覚えているから、多分その翌年の初夏ごろのことであったろう。父は裏庭に向った下見窓の板じきのところに蓄音器をおいて、よくひとりでそれをかけては聴いていた。そういうとき、何故か母はその傍にいず、凝っと音楽をきいている父の後姿には、小さい娘の心を誘ってそーっとその側へ座らせるものをもっていた。四十を出たばかりであった父は、黙って娘の手をとって自分の手のなかへ握り、そのまま膝において猶暫く聴いていて、レコードをとりかえたりするとき「どうだい、面白いかい?」ときいたりするのであった。
やがて、レコードのレッテルの色で、メルバの独唱だのアンビル・コーラスだのいろいろ見分けがつくようになり、しまいには夕飯のあとでなど「百合ちゃん、チクオンキやる」と立って変な鼻声で、しかも実に調子をそっくり「マイマイユーメ、テンヒンホー」などと真似した。母は苦笑いした。今思えば、その声も歌詞もキャバレーで唄われたようなものであったろう。更に思えば、当時父の持って来たレコードもどちらかと云えばごく通俗のものであったと考えられる。オペラのものやシムフォニーのまとまったものはなかったように思われる。
程なく、ピアノの稽古がはじめられた。ヴァイオリンをやるにしろ、基本はピアノだというような話がされていた憶えがある。先生は久野久子さんであった。上野を出たばかりでまだ教えるのではないが、というようなところを特別にたのみ、家が三丁ほど離れた同じ本郷林町のお宅へ通った。やっぱり、ベビイ・オルガンで教則本の三分の一ほどやったのであった。手首を下げた弾きかたで弾くことを教った。そのうち或る晩、本郷切通しの右側にあった高野とか云う楽器店で、一台のピアノを見た。何台も茶色だの黒だののピアノがある間にはさまって立っていたそのピアノは父と一緒に店先で見たときはそれほどとも思わなかったのに、家へ運ばれて来て、天井の低い茶室づくりの六畳の座敷へ入れられたら、大きいし、黒光りで立派だし、二本の蝋燭たてにともった灯かげに燦く銀色の装飾やキイは素晴らしいし、十一ばかりであった私は夢中に亢奮して、夜なかまでありとあらゆる出鱈目を弾きつづけた。
ピアノの稽古は女学校の二年の末ごろまで続いた。もっとつづくわけであったところ、久野さんが指にヒョーソーが出来て大変長く稽古が休まれた。その間に、規則的な稽古はいつの間にかすてられて、本をよむようになり、自分ではいろいろといじりながら、稽古はそれきりになってしまった。
上野で初めて第九が演奏されたのと、久野さんがウィーンに行かれ、やがてそこで命をすてられたのとはどっちが先のことであったろうか。久野さんはおそらく私の生涯に只一人の音楽の先生として記憶される方であろうが、こちらがすこしものを考えるように成長して来た十八九歳の時分には、久野さんの気質やものの感じかたが何だか苦しくうけとられた。芸術家として燃焼する型が外向的であったからだろう。
音楽と女の生活についての考えかたも一般に狭くあったと思う。久野さんに習っていて、のち上野のピアノ科に入り、ずっと首席であった一人の令嬢が、お婿さんをとるためにどうしても音楽をすてて学校をももう一年というところでやめなければならないということを、久野さん自身、残念だが仕方がないこととして
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