別れっちまえ下らない、お龍ばかりが女じゃあありぁしない……」
 斯うも思ったけれ共、それはごくほんの一寸の出来心で世間知らずの娘が一寸したことで死にたい死にたいと云って居ながら死なないで居ると同じな事でやっぱりそれを実行するほどすんだ頭をもって居なかった。
 あてどもなく二人は歩き廻って夜が更けてから家に帰った、ポーッとあったかい部屋に入るとすぐ女はスルスルと着物をぬいで白縮緬に女郎ぐもが一っぱいに手をひろげて居る長襦袢一枚になって赤味の勝った友禅の座布団の上になげ座りに座った。浅黄の衿は白いくびにじゃれる蛇の様になよやかに巻きついて手は二の腕位まで香りを放ちそうに出て腰にまきついて居る緋縮緬のしごきが畳の上を這って居る。目をほそくして女はその前に音なしく座って居る男を見つめた。
「そんなに見つめるのは御よし、私しゃ生きて居る人間で鏡じゃあない」
「ほんとうにいかにも人間らしい男らしい方ですわ、男のだれでももって居る馬鹿な事をあんたはちゃんともってるんですもの――ねえ」
 女は笑いながらこんな事を云った。胸のフックリしたところにさっき自分をつっついて居た針の光ってるのを見つけて
「針を御すて早く、あぶない」
と男は不安そうに云った。
「あんたがこわいから? ほんとにさっきは面白かった、先にどくでも塗ってありゃあなお面白いんですわ」
「それで私が段々紫色になって死ねばサ、そうだろう」
「エエ、わたしゃ人間の死骸と蛇と女郎ぐもとくさった柿がすき」
「そんないやらしい事ばっかり云わないもんだよ、私は段々お前がこわくなって行く。逃げ出したいと思ってるだけど私はどうしたものか手足を思う様に動かす事が出来ない。私しゃ心から御前に惚れてるんだろうか、それでなけりゃあいつでも私はにげられるはずだ」
「そんな事どうだってようござんすわ、私の体からしみだすあまったるいどくにあんたはよっぱらって身うごきが出来ないんです。あんたが逃げたって必[#「必」に「(ママ)」の注記]して逃げおおせないと云う事を私は知ってますわ……」
「私がもしにげおおせたらどうする?」
「それじゃ今日っから蛇に見込まれた蛙がうまくにげ失うせるか見込んだ蛇の根がつきるか根くらべをして見ようかしら。
 見込んだ蛇は死んでも蛙をのむと云う事は昔からきまってる……」
 女は前よりも一層ひやっこい眼色をして云った。
「そんなことするにはまだ私はあんまり若い、やめようもう、あんまり先が見えすいて居ていやだから……」
 男はかるく震えながらこんな事を云った。
 女はいかにも心からの様に笑って立ち上った。その襦袢の上にお召のどてらを着て伊達をグルグル巻にして机の上に頬杖をついたお龍の様子をその背景になって居る地獄の絵と見くらべて男はそばに居るのが恐ろしいほど美くしいと思って見た。御龍のなめらかなひやっこいきめの間から段々自分の命を短くする毒気が立って居るらしく思われそのまっくらな森の様な気のする髪の中には蛇が沢山住んで居やしまいかと男は思った。
「私は御前を知らない方がきっと幸福だったろうネ又お前だってそうだったかも知れない……」
「幸福だの不幸だのってそんな事わたしゃ考えてませんわ。私は天からこうときまって生れて来たんだと思ってますもの、私は自分の力を信じてるんですもの……」
「アアほんとうにお前はけしの花の様な女だ」
「私自身でもそう生れついて来たのをよろこんでますわ」
 女は男の心の中に自分の毒を吹き込む様にホッと深い息を吐いた。
 二人の間に長い沈黙がつづいた。二人の心ははなればなれに手ん手に勝手なことを考えて居た。
「私はもう帰る」
 男は思い出した様に立ち上って上《うわ》んまえをひっぱった。
「そう――」
 女は別にとめる様子もせず玄関まで男の後について行った。
「又今度」
 小さな声で男が云ったのに女はただ青白い笑を投げただけだった。
 その笑が男には忘られないものの一つだった。しずかな中に女は体を存分にされないで男を自由にすることの出来る自分の力に謝してうす笑をした。いざりよって丸い手鏡をとって自分のかおをのぞいた。ふっくらした丸みをもった頬と特別な美くしさと輝きをもった眼、まっかな唇に通った鼻、顔全体にみなぎって居る何とも云えないうすら寒い気持――そう云うものを女は女自身に感じて、
「私は若い――そして人より以上の力を神から授かって居る。私は男をどんな身分の高い人でも何でも、男ならば自分のどれいにする力を持って居る」
 手かがみをひざにふせながらよろこびにふるえる声で斯うささやいた。
「私は若いんだ――」くりかえして又つぶやいて手をのばしてあかりをけしてしまった。日の高くなるまで女はすき通る様なかおをしてねて居た。目ざめるとすぐ枕元の地獄の絵を見て女はねむたげな様子もなくさ
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