栄えもしない家の中を掃除して、珍らしく掛花に昼顔の花を插して見たり、あやしげな山水の幅を掛けたりして漸う家らしくなった中に、小ざっぱりと身じまいをして薄く白粉さえ付けたお久美さんは喜びと恐怖の混じった表情を面に浮べて立ったり座ったり落付きなく動いて居た。
 畑地を隔てた彼方に白々と続いて居る町からの往還をながめやったり小女のせっせと土間を掃いて居る傍に訳もなく立って見たり、遠い向うの木の間から三台の人力が小さくポコポコと立つ砂煙りの中に走って来るのを見つけるまでの間は、お久美さんにとっては居ても立っても居られない苦しい時の歩みであった。
 三つのチョコチョコと動いて来る者を見つけると、お久美さんは無意識に顔を火照らして、掛鏡で一寸顔をのぞくと、大いそぎで裏へ出て仕舞った。
 豚の騒がしい鳴声の聞える小路を行ったり来たり仕て居たけれ共それでもまだ好い隠れ場所では無い様な気になって、まだ果の青い葡萄畑へ入って行った。
 徐々《そろそろ》陰って来た日影は茂った大柄な葉に遮られて涼しい薄暗さを四辺《あたり》一杯に漂わせて、うねうねと曲りくねった列に生えて居る其等の幹と支柱とを隙して見る、向うの斜面の草地、すぐそばの菜園等が皆目新らしくお久美さんを迎えた。
 番小屋に腰を下して立て並べた膝に支えた両手の間に顔を挾んで安らかな形に落付いたお久美さんは眼を細めて、葉擦れの音と潤いのある土の香りに胸から飛び出しそうな心臓の鼓動を鎮め様と努めた。
 けれ共総ては無駄で有った。
 漸う息苦しくない呼吸を始めた時、いきなり耳元で途轍もなく大きな声が、
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「旦那、どっちから入るんですえ。
 向うからですかい。
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と怒鳴った事によってすっかり乱されて仕舞った。
 山田の主人が、
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「うん向うから。
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と云う声を夢の様に聞きながらお久美さんは両手をしっかり握り合わせて化石した様に夕闇の葉陰から音もなく這い出る中に立って居た。
 間もなく主屋に人声がざわめいて、
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「お久美は一体どこへ行ったんだい。
 お前捜してお出で。
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とお関が云って居るのも手に取る様に聞えて居たけれ共お久美さんは動こうとも仕なかった。
 パタパタと草履を叩きつける様にして小女はズーッと葡
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