おのずから低きに
――今日の新聞小説と文学――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十一月〕
−−

          一

 文学的作品としての面から新聞小説を見れば、もとからそれに伴っていた種々の制約というものは大して変化していまいと思われる。読者が、新聞小説に求めている面白さの本質の問題から云わば制約の第一歩がはじまっていることも、時代風俗的なディテールへの作者の適応性が要求されていることも変りはないであろう。
 しかし、今日の文学のありよう、作家のありようとの関係では、新聞小説というものが殊に微妙な作用をもって来ているのではないだろうか。昨今の外部的な条件は、例えばいつぞや『朝日新聞』が石坂洋次郎氏の小説をのせる広告を出したら、急にそれはのらないことになって坪田譲治氏の「家に子供あり」になったような影響を示す場合もあるけれどもそれは、文学にとっては相対的な条件であって、この頃、或る種の作家たちが新聞小説に対してもっている感覚には、もっと文学のなかのこととして考えるべき点をもっているように思う。今日、作家としてすこし野望的なひとは、新聞へ連載小説をかくということについて、一様に積極的な乗り気を云わず語らずのうちにもっているように見られる。そして、それが、文学の大衆性への翹望などというものから湧いている気持ではなくて、当今、人気作家と云われている作家たちは阿部知二、岸田国士、丹羽文雄その他の諸氏の通りみな所謂《いわゆる》純文学作品と新聞小説と二股かけていて、新聞小説をかくことで、その作家たちの人気が量られているような状態から何となく刺戟されている気分と思える。
 数年前、日本の社会経済の事情から、絵画がひどく売れなくなった時期があった。その前後に、これまでは決して插画を描かなかった小村雪岱、石井鶴三、中川一政などという画家たちが、装幀や插画にのり出して来て、その人々のその種の作品は、本格的な画家であるが故に珍重されつつ、その半面ではそのことで彼等の本格の仕事に一種派手やかな目を注がせる雰囲気をつくるものとなった。
 画家の本道的な業績を、大局からみてこの新しい関係が高めたか、或は通俗に堕す部分を生ぜしめたかということは
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