ある回想から
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)萎《な》えた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こっちは[#「こっちは」に傍点]
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日本には、治安維持法という題の小説があってよい。そう思われるくらい、日本の精神はこの人間らしくない法律のために惨苦にさらされた。
先日、偶然のことから古い新聞の綴こみを見ていた。そしたら、一枚の自分の写真が目についた。髪をひきつめにして、絣の着物をきて、長火鉢のわきにすわっている。そして、むかいあいの対手に、熱心に話している。その顔が、横から夜間のフラッシュで撮されているのであった。興奮して、口を尖らかすようにしているその女の顔は、美しくない。せっぱつまって、力いっぱいという表情がある。年をへだて、事情の変ったいま眺めなおしたとき、その写真は私の心に憐憫を催おさせるのであった。
一九三八年(昭和十三年)一月から、翌年のなかばごろまで、日本では数人の作家・評論家たちが、内務省の秘密な指図で、作品発表の機会を奪われた。そのころ内務省の中で、ジャーナリストたちを集めて、役所の注文をなす会合がもたれていた。そこで、何人かの文筆家が名ざされて、雑誌その他に執筆させないようにといわれたのであった。
三七年の十二月三十一日の午後、私は、重い風呂敷包みを右手にかかえて、尾張町の角から有楽町の駅へむかって歩いていた。すると、いま、名を思い出せないけれども、ある新聞の学芸部の記者の人が、
「やア、どうです」
近づいてきながら、大きい声でいった。
「感想はいかがです」
わたしは、ゆっくり立ちどまって、挨拶をかえした。
「感想って……。私はこれから、稲子さんのところへ行くんだけれども……」
「へえ」
ひどく案外らしく、
「知らないんですか」
といわれた。
「執筆禁止ですよ」
「誰が?」
「宮本百合子、中野重治それから――」何人かの姓名が告げられた。評論家も何人か入っている。窪川夫妻も、すれすれだろうということであった。私は、かかえた風呂敷包みの中に、ついそこで買ったお正月用の「きんとん」の包をもっていた。半分は、白いうずら豆の「きんとん」ではあったが、たっぷりあって、去年も、その前の年の暮にもしたように、稲子さんの子供たちと半分ずつわけようと、潰さないようにもっているのであった。
「じゃあ、ともかく稲子さんのところへ行ってみましょう」
「それがいいです、じゃ、いずれ――」
わかれて、省線にのり、やはり「きんとん」の包みをかばいながら、高田馬場からなじみふかい小瀧橋への通りを歩きながら、なんともいえず奇妙な落つけない気分がした。生きている。歩いている。考えたり、感じたりしている。まざまざと、日々の現実が心にてりかえされてくる。だのにそれを表現してつたえてはいけないということは、永年ものを書いて生きてきた自分にとって、自分という存在が実体を失って影だけになって、動いているように信じがたく、変なのであった。
稲子さんが、そのころ住んでいた家は、上り口のつきあたりが茶の間になっていた。
「こんにちは――」
といいながら、上って、茶の間に入ると、そこに稲子さんと窪川さんとがいた。ほかに、もう一人お客もあったように思う。
「執筆禁止だって――きいた?」
「ええ、さっき聞いたところ。ひどいねえ」
そういう場合、そういう立場におかれた作家たちのいわずにいられないたくさんの感想を話しあった。
正月になって幾日かして、近ごろ私が可哀想に思ってみたその写真がとられ、インタービューがされたのであった。
さらにそれから幾日か経て、中野重治と私とは、内務省の係りの役人のところへ、事情をききに出かけた。外から入ると、トンネルのように長く真暗に思える省内の廊下に面した一つのドアをあけると、内部をかくすように大きい衝立が立っている。その衝立をまわって、多勢の係員のいるところから、また一つドアがあって、その中に課長が一人でいた。デスクにむかい、折目の立った整った身なりの四十がらみの人であった。
中野重治が、訪問のわけを話した。作家としての生活権を奪われることは迷惑であることを話した。かりに、役人である人が、突然、無警告にクビになって、その朝から困らないだろうか。事情はまったくおなじであると、話した。課長は、けっして、生活権を奪おうなどと思ってしたことではないこと。第一、特定の人々を指名したわけではなかったのに、ジャーナリストの中の誰かが、漠然と暗示されたのでは編集上不安心で困ると、やかましくいって、役人側にリストを公表させたのだという説明であった。
「実際のことは、事務官があつかっていますから、ただいまこちらへ呼びます。どうか、よくおきき下さい。私は近く転任になりますので――」
何年もおなじ系統の職業に従事してきたことが、短く苅った頭にも、書類挾みをもった手首の表情にもあらわれている事務官が、黒い背広をきて、私たちの入ったとは反対側のドアから入ってきた。課長と大同小異の説明をした。もし、書くもののどういうところが困るとわかれば、それらについてうちあわせてもよいと、中野重治がいった。
「いや、別に、どういう箇所がいけないという具体的なものでもないんでしょうが……ともかく、もうすでに、ある方は手紙をよこされて、御自分の立場を弁明してこられています。――そういう方にたいしては、こちらでも、至急考慮いたしますが――……」
私たち二人の作家の訪問は、一回きりで、つぎに、保護観察所という、刑務所の出張所のような役所で、内務省の役人との懇談会があった。そのときも、作家の側からは、生活権のことが主張された。その点については、まだ当時の事情では内務省としても考慮しなければならないふうであった。丸一年半という重く苦しかった時を経て、私たちは、またそろそろ、作品発表ができるようになった。
この昭和十三年の禁止の時は、当時まだ幾分の抵抗力と生気とを保っていたジャーナリズム、主として新聞が日本の文化全般の問題として、この暴圧をとりあげた。しかし、禁止のリストにのせられた作家・評論家たちの間に、統一された抗争は組み立てられなかった。ある種の人々が、さっそく、個人個人で、こっそりと役所へ連絡をつけ「自分として」問題の解決を急いだ。文芸家協会として、まとまった有効な抗議もされなかった。日本の文化は、もうすでに文化を守る生活力を失っていたのであった。
一九三三年の春、プロレタリア文化団体が壊滅させられた後、ファシズムに抗する人民戦線の問題、文学における能動精神がフランスから紹介されたが、近代の市民生活の歴史をもたず、封建保守の傾きのつよい当時の日本の作家の雰囲気の中には、いつも、こうむる弾圧は、左翼だからという考えかたに支配された。自身の文学を、左翼から、できるだけ隔離すれば、少くともこっちは、そして自分なんかは安全だ、という誤った測定がされていた。作家の中で、執筆禁止について、発言し、なにかの意味で正しくふれた人々は、ごく少数であった。ましてや、温和なチェホフが、壮年のゴーリキイを除名したアカデミーにたいして、自分がアカデミシャンであることを恥じると抗議したような、温和にして剛毅な文学の精神は、日本の当時に存在しなかったのである。
十三年代に明瞭にあらわれた、この文化暴圧にたいする「こっちは[#「こっちは」に傍点]」「自分なんかは[#「自分なんかは」に傍点]」の考えかたが、窮極の現実において「こっち[#「こっち」に傍点]」の「純粋な文学性」をどんな目にあわせることになったか、また、自分なんかは、と測定した個々の人の文学の才能や人生への確信を、どんな過程で崩壊させていったかという事実を顧みると、惨澹たるものがある。
野蛮な権力は、文学面で狙いをつけた一定の目標にむかって、ほとんど絶え間のない暴威をふるった。一人の人間の髪の毛をつかんで、ずっぷり水へ漬け、息絶えなんとすると、外気へ引きずり出して空気を吸わせ、いくらか生気をとりもどして動きだすと見るや、たちまち、また髪を掴んで水へもぐらせる、拷問そっくりの生活の思いをさせた。
一九三二年の春から一九四五年十月までの十三年間に、日本の一作家たる私が、ともかく書いたものを発表できたのは、三年九ヵ月ほどであった。あとの九年という歳月は、拘禁生活か、あるいは十三年度の一年半、十六年一月から治安維持法撤廃までの執筆禁止の長い期間にあたっている。
公衆の面前で、一定の人間を、これでもか、これでもか、というふうにあつかったことは、直接そういう目にあうものを極度に苦しめたばかりでなく、ある距離をもってそのぐるりをかこみ、その光景を目撃している、より多数の、より不安定な条件におかれているものの精神を毒することはおびただしかった。文学の領域において、作家の敏感性や個人主義の傾向は、この点で十二分に利用された。一九四一年(昭和十六年)の一月から、また、幾人かの作家・評論家が執筆禁止になった。三年前は、主として内務省がその仕事をやったものであったが、四一年には、情報局がこの抑圧の中心になった。噂では、けがらわしいリスト調製に無関係ではないと話される作家さえもあった。
アメリカへの戦争準備を強行中の軍事力は専断のかぎりをつくした。情報局でこしらえたジャーナリストと役人との、執筆者リストのようなものを、そのころ偶然みたことがあった。それは、当時の輿論が、どんなにふみにじられたものであったかを証明した。ジャーナリストが、さまざまの意味から、執筆して欲しい作家をA・B・C級にわけた。そのA級が大部分、役人にいわせれば禁止A級に入れられていた。役人が執筆させたいAの方には、通俗的また軍国的文筆家が大多数を占めていた。
軍事行動邁進の三年という年月に、ジャーナリストたちの自立も弱められた。新聞は、もう再度の文化暴圧にたいして、発言しなかった。進歩的な作家たちも、それについて理性からの批判は示しえなかった。舟橋聖一氏がこの間発表した「毒」という小説は、作品としては問題にするべきいくつかの点をもっているけれども、あのころ、わが身を庇うために、日本の知識人がどのくらい自負をすて卑劣になり、破廉恥にさえなっていたかという姿だけは、示しえている。
個人の問題ではなく、文学の置かれている非道な境遇として、中野や私は、なんとかそれを全般の関心事としたかった。進歩的な精神をもち、行動も消極ではないある評論家を二人で訪問した。今回の情報局のやりかたは正しくないという意見の、雑誌編集者もいあわせた。いろいろの事情を綜合し、文学者たちの気分を研究し、つまり、意味ある反応は期待しがたいという結論になった。この時期になると、こわいものに近よらず、自分たちを守るのが精一杯、という気風が瀰漫して、その人々のために、幅ひろい、なだらかな、そして底の知れない崩壊への道が、軍用トラックで用意されていたのであった。
そのころ、文芸家協会の事務所が、芝田村町の、妙に粋めいた家に置かれていた。一室に事務所があった。私は、ある午後、ひとりでそこを訪ねた。英文学の仕事をしていた某氏が事務担当をしていた。私の用事は、前に中野さんと某氏を訪ねたとおなじ題目であった。文芸家協会は、大正年代に組織され、古い歴史をもつ日本で唯一の文学者の集団である。理事というところには、日本の代表的著述家・作家が顔をならべている。これらの人々の顔ぶれの世俗的に賑やかな体面上からも、日本の文学が瀕している危機にたいして黙っていられないはずであろうと思えた。こちらからの話があれば、文芸家協会の議題にのぼることなのだろうか。
光線のたりないその事務室で、正直な某氏は、苦渋の面持ちであった。
「それは、もう当然、問題にするべきなんです。しかし……今の理事は――」
「どなたから提案なさるということも不可能なんでしょうか」
「率直にいって麻痺していますからね、どの点からも――。想像もしていないでしょう」
「しかたが
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