して人間の生活、種々様々な人間の動きということが面白くて、気にも入って観ている人間の観かた、入りこみが流露しているのである。
 しかも宗達は、こんなに柔軟で清新な芸術の世界で、いかにも微笑まれる技術の上の手品を演じている。
 画面の左手に、あっさり鳥居がおかれている。画面の重心を敏感にうけて、その鳥居が幾本かの松の幹より遙に軽くおかれているところも心にくいが、その鳥居の奥|下手《しもて》に、三人ずつ左右二側に居並んでいる従者がある。
 同じ人物でありながら、この三人ずつの一組は、鳥居の外から中央に至り、さては上手の端の牛飼童に終る一群の人々とは、何と別様に扱われていることだろう。
 画家は、画面のリズムの快よい流れの末としてこの六人を見ている。そのために、鳥居とそのうしろの雄渾な反り橋の様式化に応じて、これらの人物は人物ながら、静的に、自身の動きを消されたものとして、衣紋さえ、こちらの群の人たちの写生風なのとは全然違った様式で統一している。
 更に、思わず私たちの唇をほころばせ、つづいてその画魂に愉快を覚えるのは、宗達がこの三人ずつの一組のところで、遠近法というものを、さかさまにしている点である。
 こんな小さい縮写でさえ、力量の目ざましさにうたれる宗達が、遠くに在るものが、近くにあるものより小さく見えるという日常の事実を、どうして知らないわけがあろう、彼は十分知っている。その上で、この三人ずつ二側の人物は、顔をこちらに向けている遠い三人をやや大きく、背中だけを向けている近くの三人は却ってごく小さく描き出しているのである。
 宗達の芸術家としての直感が、生命の爽やかさに充ちていたことが、ここにも窺われると思う。彼は、画面の隅から隅までが豊かに息づいて滞らないことをのぞんでいる。もし背中だけ向けている三人を大きく出せば、生動する画面に計らず一つらなりのめくら壁が立つ結果になって、リズムはそこで阻まれるだろう。芸術家らしさで、其処を鋭く洞察している。そして、子供が絵をかきはじめるときは、よしんばそれが「へへののもへじ」であろうとも、まず顔に目をひかれ初めるものであるという人間の素朴本然な順序に、すらりとのりうつって、こちらに顔を向けている三人の距離を、人間の顔というよすがによって踰《こ》えている。偶然によってではなくて、はっきりした考えをもって、芸術の虚構の効果をあげて
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