あとがき(『宮本百合子選集』第六巻)
宮本百合子
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(例)[#地付き]〔一九四八年十二月〕
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「伸子」は一九二四年より一九二六年の間に執筆され、六七十枚から百枚ぐらいずつに章をくぎって、それぞれの題のもとに二三ヵ月おきに雑誌『改造』に発表された。たとえば、第一の部分「揺れる樹々」につづいて「聴きわけられぬ跫音」そのほか「崖の上」「白霧」「蘇芳の花」「苔」などという小題をもって。
当時日本にはもう初期の無産階級運動が盛であったし、無産階級の芸術運動もおこっていた。解放運動の全線にわたって、アナーキズムとコンムニズムとの区別が明確にされていない時代であった。プロレタリアートが、歴史の推進力となる階級であることは主張されていたが、進歩的な小市民・インテリゲンツィアが革命の道ゆきにどのような位置と使命とをもっているかということについて、まだ科学的な判断が生活と文学との具体的なありかたではっきりさせられていない時期であった。無産者芸術運動、その文学の分野では、自然発生的に宮嶋資夫、葉山嘉樹、前田河広一郎、江口渙その他の無産階級出身の小説家の作品が登場し、芸術理論の面では、平林初之輔、青野季吉、蔵原惟人等によってブルジョア文芸批評の主観的な印象批評に対して、文学作品のより客観的科学的な批評の必要が提唱されていた時代であった。また文学作品の評価のよりどころとしての社会性の課題がとりあげられ「調べた作品」の要望もおこっていた。当時、無産派の文学としてあらわれていた作品は、どれもそれぞれの作者の生活より自然発生的にその貧につき、社会悪と資本家への憎悪などが描かれたもので、つきつめてみればそれがこれまでのような富裕な階級に生きる文士の身辺小説でないという違いをもっただけのものが多かった。その「印象のつづり合わせ」や「単なる興奮と感傷」に満足しないで、労働階級は生産機関を握り、社会の運転を担当している階級なのだから、ブルジョア文学者のうかがい知ることの出来ない生産と労働と搾取との世界を解剖し、描写すべきであると主張された。
プロレタリア文学運動が、端緒的であった自身の文学理論を一歩一歩と前進させながら、作品活動も旺盛に行っているのに対して、ブルジョア文学は、そのころから不可抗に創造力の衰退と発展性の喪失をしめしだした。日本資本主義高揚期であった明治末及び大正時代に活動しはじめた永井荷風、志賀直哉、芥川龍之介、菊池寛、谷崎潤一郎その他の作家たちは、丁度それぞれの段階での活動期を終ったときだった。これらの作家たちは無産階級運動とその芸術運動の擡頭しはじめた日本の新しい社会と文学の動揺のなかに、各自の発展の道を求めなければならなかったのであったが、これらの人々がこんにち自身をおいている状態からみても一目瞭然であるとおり、誰もが自身の既成文壇においての地位を肯定し、個人的な才能に未来の打開をたのんだ。無産階級の芸術運動と旧文壇とは互にゆずることのない粘りづよさで対立した。
真実の発展を自分たちに向って拒みつつあるブルジョア文学のひこばえとしてこの時期に発生したのが、横光利一その他の人々の新感覚派のグループであった。それぞれの権威で文壇を封鎖している旧いブルジョア文学にはあき足らず、さりとて無産階級の文学運動に対しては自分たちの属している社会層の小市民風な生活感情から共感がもてず、どちらに向っても抵抗しながらドイツの表現派の手法を模して漠然と新しい生活と芸術の感覚を主張して、自身の存在意義を見出してゆこうとしたのがこの新感覚派であった。
その時代に「伸子」の作者は、所謂文壇からもはなれていたし、新感覚派からも遠く、無産階級文学運動については、作品をよんでいるだけで、理論的な問題は何ひとつ理解していなかった。足かけ三年作者はひたすら「伸子」に没頭した。人間らしい生活の多様さや発展、生きている甲斐が感じられるような人生をもとめて結婚した一人の若い女が、あいてと自分との結婚生活の現実に見出したものは、無目的で、エゴイスティックな理想のない日々の平安への希望だけであった。流れ動き生成する男女の結合こそ愛とよばれるべきものだと信じている一人の生活的な女にとって、当時の日本の通念であった家庭の平和の観念や、夫婦愛家庭愛における女の無主張の立場は恐怖を与えた。結婚にからむ親たちとの相剋も非条理に思えた。二十歳の女の人生をその習慣や偏見のために封鎖しがちな中流的環境から脱出するつもりで行った結婚から、伸子は再度の脱出をしなければならなかった。世間のしきたりから云えば十分にわがままに暮しているはずの伸子がなぜその上そのように身もだえし、泣き、そこは自分の生きられると
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