ころでないと苦しむのか、ほとんど諒解に苦しんでいるあいてを伸子として避けられない容赦なさで傷けながら、その人をそのように苦しめているという意識で自分もますます逆上しながら。――
作者は、この社会に階級の存在するという事実や、自分が生れてそこに育った中産階級というものの歴史的な本質について当時は知っていなかった。したがって、「伸子」は、階級的意識によって分析批判されていない。けれども、こんにち日本がやっと人民の権利という文字をその中にふくんだ憲法をもつようになり、男女の人間的な対等が理解されて来たとき、四分の一世紀も前にかかれた「伸子」がこれまでになく広汎な各層の読者によまれているという事実は何を語っているだろう。「伸子」のテーマが今日の日本の若い女性の全生活においてまだ解決されつくしていない社会的な課題であることが告げられているのではなかろうか、結婚や家庭の本質について伸子のもった疑問、親子・夫婦の繋りを重く苦しいものにする様々の考えかたから互に解かれようとする意欲。人間同士の愛とか理解とか呼ばれるものはどういうものなのだろうかという伸子の問いかけさえ、今日の日本はまだそれを社会的な生活条件によって基礎づけ解決していない。日本の社会と意識の隅々にまではびこっている半ば封建のかげは、そのように濃い。日本のすべての女性が民主的な市民としての生活にたつ条件は、まだ決して多く加えられていないという実際がうかがえるのである。
「伸子」が一巻の長篇小説として経て来ためぐりあわせにはなかなか意味ふかいものがある。「伸子」が完成して、出版準備も終った一九二七年の日本で、「伸子」は一つの文学的現象にしかすぎず、或る程度まで評価された一つの文学的業績にとどまった。そして、そのように評価したのは、所謂旧文壇であり文学愛好者のせまい輪であったことは興味がある。中産階級やインテリゲンツィアの革命性とその価値について十分把握していなかった当時のプロレタリア文学の側は、「伸子」を全く無視していたように思われる。ひとくちに云えば、作者は無産階級の作家ではなかったから。まじめな「伸子」の批判も見なかったし、作者のもっていた積極性の本質やその限界についての分析も与えられなかった。そのころのプロレタリア文学運動のおかれていた未熟でやや機械的だった文学の階級的基盤の解釈なりに、プロレタリア文学もやっぱり
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