ズム誹謗をこととした。こんにち客観すれば、当時の転向問題の扱いかたの多くは、本質において検事局的な匂いをふくんでいるか、あるいは、傷つかない傍観者の正義感の自己満足の要素がなくはなかった。
「冬を越す蕾」で、日本の近代社会にのこされている半封建性と、その影響をうけているインテリゲンチアの精神構成をとりあげていることは正しかった。治安維持法の犠牲となった作家たちが、転向の動機を、めいめいの個人的性格の問題、インテリゲンチアと勤労大衆との間にある思想的ギャップ――インテリゲンチアの観念性という理由づけで、作品化したことについての疑問を提出したことは誤っていない。それぞれの人の告白、傷魂の歌とするにとどまらず、せめては当時の日本のインテリゲンチアの負わされている社会的なマイナスの悲劇として、とらえられないことについて心からの遺憾をあらわしていることも、こんにちの同感を誘う。
「冬を越す蕾」のきびしい季節は、もう日本の歴史にとって、すぎてかえらない一つの悪季節であった、ということができるだろうか。日本の人民が進んでゆく歴史の道は、わたしにとって、単純だとは思われていない。民主主義革命とその文学とは、日本の全人民の、民主的な人間革命をこそ、広汎で重大な任務としてできる限りの熱意で達成してゆかなければならない。民主的で、人間的な社会進歩に対する善意を、普通の市民的標準の意志と肉体の堅忍とで保ってゆくことができる程度の民主社会をまずつくることが、とくに日本ではまじめに考えられなければならない。現代の非人間的なものとのたたかいが、そのたたかいに立っている英雄たちのためにだけあるものだとは、よもや考えられてはいないだろう。
日本の侵略戦争はとめどなく拡大されて行った。そして「非常時」が、あらゆる理性と文化を抹殺しはじめて横光利一の「高邁」の力よわさをあらわし、「自由な自意識」の存在は不可能であることを明瞭にしてゆくにつれ、日本の文化知識人の間に、文化擁護の欲求が湧いた。
一九三五年に京大におこった瀧川教授事件を動機として「学芸自由同盟」が組織され、一九三六年には小松清によって、その前年の夏、パリに開かれた文化擁護のための「国際作家大会」と、その成果である同じ名の連盟の誕生が紹介された。これは一九三四年八月、モスクワで第一回文化擁護国際作家大会がもたれたとき、フランス代表として出席していた人々の報告から刺戟されたものであった。
パリの文化擁護の大会ニュースは、混迷停滞しきっていた当時の日本の文化人、文学者に、新しいヒューマニズムの希望を与えた。新しいヒューマニズム、その能動精神、その行動性という観念がよろこび迎えられて、間もなく雑誌『行動』がうまれ、舟橋聖一、豊田三郎その他の人々が、能動精神の文学をとなえはじめた。
一方では、前年ヴェノスアイレスの国際ペンクラブ大会に日本代表として出席した島崎藤村が、大会の反ファッシズムに高まった雰囲気から、彼独特の用心ぶかさで日本の立場[#「日本の立場」に傍点]を守ってかえって来て、日本ペンクラブの創立に着手しはじめている時であった。また他の一面では、これも日本に独特な治安維持が化物の眼を見はって、日本におこった能動精神、新しいヒューマニズム、反ファッシズム文化擁護の運動が、実践的な力をもたないようにと監視しつづけている。それらの事情に加えて、文化の擁護、新しいヒューマニズムを提唱しはじめた人々自身が、その心理に、つよいプロレタリア文化・文学の運動忌避の要因をひそめていたから、一つ一つ、曲り角へ出るごとに、この運動には階級性がないこと、プロレタリア文化運動の再建ではないこと、階級意識をもつ人はボイコットすることを証明しなければならなかった。ファッシズムに対して文化を擁護し、新しいヒューマニズムに向って能動であろうとする人々が、自身の文化を抑圧し、運動を骨ぬきとする自分の国のファッシズムそのものとのたたかいは、極力回避しなければならなかったというのは、何という呪うべき矛盾であったろう。当時のリベラリストは、ファッシズムというものが、どんなに野蛮兇猛であるかを十分理解せず、リベラリズムの範囲は、リベラリズムそのものだけの力で防衛できるかのように考えた。その結果はどうであったろう。うちつづく戦争と理性殺戮の年々に、日本の文化と文学にのこされたものは荒廃でしかなかった。そして、軍部と軍国主義教育は前線で、日本人民がそれを自分たちの行為として承認することを不可能と感じるほどの惨虐が行われた。敵という関係におかれた他の国の人々に対して。また日本軍の兵士たちに対して。(この記録は一九四九年になってすこしずつ発表されはじめている。)
一九四八年ごろから、日本におこっている平和と自由と独立のための広く大きい戦線は、十数年前の、この文化擁護の運動の経験から多くのものを学びとっている。こんにち、平和擁護と独立のために自身の立場をあきらかにしている人々のなかには、かつて、新しいヒューマニズムの希望を奪われた人々、計らずも自分たちの手からその希望の鍵を奪いとらせた経験をもつ人々を包括している。
ファッシズムに反対する運動は、非人民的権力に対して譲歩的でない本質に立たずにはあり得ないこと。文化を擁護するということは、市民的自由と基本的人権の擁護なしに存在しないことが、こんにちでは、自明となっているのである。
ファッシズムへの抵抗、平和擁護の一つをとってみても日本の人民的民主主義の全局面が、現在どんなに国際的条件にかかわりあって来ているかがよくわかる。
異国趣味《エキゾティシズム》を通じて、より進んだと信じられている文化形態を通じて、民族の人民的文化の質が隷属状態に変化してゆく危険がある場合、国際性《インターナショナリティ》は、はっきり、ブルジョア文学の個人主義にたつ世界人主義《コスモポリタニズム》と区別されなければならない。また、観光用国土、人民としての国際性から区別されなければならない。
これまで日本の市民生活に正常な国際性はかけていた。日本人民は世界を意識した明治のはじめに、もう世界を、競争の相手、負けてはならない国として教えこまれた。ひきつづいて超国家主義の大東亜共栄圏の観念にならされた。こんにち、かつての大東亜圏の理論家のあるものは、きわめて悪質な戦争挑発者と転身して、反民主的な権力のために奉仕している。
「プロレタリア文学における国際的主題について」は、それらの問題についてある点を語っているが、この評論のなかには、きょう、一つの参考となる経験が語られている。
それは「ズラかった信吉」の失敗にふれている箇所である。当時、わたしは、この作品の失敗の理由を、大衆的なものがたり形式にせず小説とした点においている。しかし、こんにちになってみると、「ズラかった信吉」の失敗の原因は、単にそれだけではない。というよりも、その失敗にふくまれて、研究されていいいくつかの問題があることが理解される。そこには、こんにちの民主主義文学運動のなかでさえも、右や左へゆれながら論じられている文学の「大衆性」「啓蒙的役割」の理解の問題がひそめられているし、各作家の特質についての具体的観察の問題があり、創造活動のうちに包括される啓蒙のための文筆活動の評価の問題もある。
『戦旗』が一九二九年ごろ、片岡鉄兵の「アジ太・プロ吉世界漫遊記」をのせて大好評であった。一九三一年に「ナップ」は、数人の作家に課題小説をわりあてた。農民小説は誰、労働者小説は誰、という風に。そして、作者はソヴェト同盟の生活をどっさり紹介しているからソヴェト小説を、とうけもたされた。『改造』に半年ほど連載して中絶した。検挙という外部からの理由でなしに中断した唯一の作品である。
いま考えれば、作者によって、あれだけ多量・広汎にソヴェト生活報告は執筆されているときであるから(選集第八、九巻)「ナルプ」は、啓蒙的な必要のためには、最もじかにその目的をもって書かれているそれらの紹介を集め、出版し、普及させるのが、能率的であり、活溌な方法であった。しかし、当時の「ナップ」指導部はそう考えず、作者自身も、そういう標題小説が、はたして可能であるかどうかを深く考える力をもたず、割当に服した。ソヴェト同盟に関する場合、社会主義建設の事業は現代大きい摩擦のうちに行われている厳粛な人類的事業であり、多面的であり、当然矛盾ももっている。正直な、客観的観察とその報告《ルポルタージュ》しか、そこにある現実をつたえにくい。小説化すことは、危険をもっている。ソヴェト作家にとってさえ、それはしばしば大きすぎる主題としてあらわれているくらいである。
一九四九年のこのごろ、ジャーナリズムの上では記録文学《ルポルタージュ》流行がはじまっている。国際的な題材のルポルタージュがふえているのであるが、そのどれもが、国際間の現実を正しく反映しようとしているのでないことは、誰しも気づいている。現在、最も歪められて扱われているのはソヴェト同盟に関するルポルタージュである。それは日本の内にひそんでいる戦争挑発者によってそそのかされてジャーナリズムの上に現れるばかりでなく、在パリその他の外国都市に生活する人、旅行している人々の通信が、ルポルタージュの形をとりながら大きく歪曲をふくんでいる場合が少くない。
まじめに世界平和を希望している日本のわたしたちにとって、「フランス通信」で知られている瀧沢敬一が、世界平和のための積極的な発言者であるジョリオ・キューリー博士を政治的な嘲弄の言葉で通信にかいているのを見れば、平和を希う世界の良心に加えられた侮蔑と感じずにいられないのである。現代は、わたしたちが思っているよりも更にはげしく資本主義の権力は目的意識にみたされているのである。
一九四九年六月
[#地付き]〔一九四九年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「宮本百合子選集 第十巻」安芸書房
1949(昭和24)年8月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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