うな社会的心理を根底にもって、社会主義リアリズムの課題を、超階級的なリアリズムの創作方法として日本に紹介しようとする一部の人々の奔走。一九三四年には「非常時」という言葉が用いられはじめて、プロレタリア文学運動の組織が破壊されたのちの日本の文化・文学が見出したものは、全面的な混迷と貧血とであった。「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」は総括的にこの時期を展望している。プロレタリア文学運動の組織とその作家たちのうけた被害の姿を眺めて、居直ったブルジョア文学とその作家が、横光利一の「紋章」をかざして、一方に擡頭しつつあるファッシズムとその文学の警戒すべき本質をさとらずに、右にも左にもわずらわされない「自由な自意識の確立」に歓声をあげていた情況は、まざまざとうつされている。天皇制の「非常時」専制があんまり非人間的で苦しく、重圧にたえることに疲れたプロレタリア作家のある部分も「自由な自意識の確立」に魅惑された。この当時の状態をよむ人は計らず太宰[#「太宰」は底本では「大宰」]治の生涯と文学とに対して、民主主義文学の陣営から、含蓄にとみながらその歴史性を明確にした批評が出ることの意外にすくなかったことを思い合わされはしないだろうか。
 当時小説の神様のように眺められていた横光利一のこの「自由な自意識の確立」論の水源は、「マルクシズムという実証主義の精神」に「突きあたって跳ねかえったものなら、自由というものは、およそどんなものかということぐらい知っていなくちゃ、もうそれは知識人とはいえないんだ」というところにあった。そしてその自由というのは「自分の感情と思想とを独立させて、冷然と眺めることのできる闊達自在な精神なんだ」といわれている。ここから、当時文学青年の間に大流行をきわめた横光の観念的な心理主義が生れた。やがて無人格な三人称の私というものが発明されて、客観的な現実世界と主観的自我との間の機械的な接続器の役を負わされるようになり、作家が現実への責任をとわれる純文学から一種の通俗小説に移って行くこととなった。この時代、横光利一は、彼の心理主義の支柱として小林秀雄の評論活動と結びついた。横光利一の「高邁」と「自由な自意識」がファッシズムのもとにどんなに圧しひしがれ同調したかということは後にあらわれる「厨房日記」その他において示された。
「冬を越す蕾」は、同じ一九三四年の十一月
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