は大きく深い。そして、こんにち商業新聞の頁の上に、昭和初頭と同じように講談社、主婦之友出版雑誌の大広告を見るとき、この評論集におさめられている「婦人雑誌の問題」の本質が、更に複雑な隷属の要因を加えて、わたしたちのこんにちの文化問題であることを知る。「今日の文化の諸問題」をふくめて。
 一九三一年七月中央公論のためにかかれた「文芸時評」は、全篇がその五月にもたれた「ナップ」第三回大会報告となっている。中央公論の編輯者ばかりでなく、多くの人が、その素朴さにおどろいた。わたしはそんなに人におどろかれるわたしの素朴さというものがわからなかった。そんなユーモラスな一つの記録も、こんにちよめば、制服の警官が臨監して、中止! 中止! と叫ぶ場内の光景はいきいきと目にうかんで来る。われわれの文学史の、これが生きた一頁であった。
「一連の非プロレタリア的作品」という論文は当時やかましく論議されたものである。わたしという一人の作家にふれる場合、見のがすことのできない母斑のようにあつかわれても来ている。民主主義文学運動がはじまってから蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治にふれて、当時の検事局的に歪曲された「政治的偏向」批判をそのままくりかえし、これらの人々の活動の積極面――プロレタリア文学運動の成果の抹殺が試みられた。それは、客観的には、非民主的諸勢力への加担を結果することである。「一連の非プロレタリア的作品」を思い出させることで、わたしの現在での活動や発言を牽制する効果を期待するとすれば、それは不可能である。
 あの評論にふくまれている誤謬は、プロレタリア文学の戦線拡大に対する政治的態度の未熟さと、そこからひきおこされた文学に対するピューリタニックな熱情の噴出にあったのだった。それは、作品を批評された作家たちにやけど[#「やけど」に傍点]させたばかりでなく、筆者自身も自分の噴き出した火焔をあびた。
 こんにちになれば、「一連の非プロレタリア的作品」を書いた当時のわたし自身の政治的な幼稚さはよくわかる。同時に、その評論をめぐって、そこに猟犬のように群がりたかって、わたしを噛みやぶり泥の中へころがすことで、プロレタリア文学運動そのものを泥にまびらす役割をはたした人々の動きかた――政治性も、くっきりと描きだすことができる。それは、かみかかった人々のみんなが、わたしと同様に若くて、幼稚だった、という
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