るすべての文芸評論を通じて、一つのことが改めて感じられる。それは、文学はもとより理論ばかりの上に開花するものではないけれども、わたしたちが今日から明日へと生活の真実と文学の良心とを発展させてゆくためには、どんなに世界歴史の進行に即する正しい認識がなければならないかということである。すべてのファシズム文化理論、精神総動員的文学論の提唱は、どれ一つとしていわゆる文学論の形をとらずにあらわれたものはなかった。そして、もっとも注目すべきことは、ファシズムへの精神総動員文学論の、どれをとってみても、その議論のどこかには、当時の文学を客観した場合に見出される欠陥、市民としての判断にうつる文学者生活の弱体な点への批判がふくまれていたことである。だから、ひとつひとつ切りはなしていわれていることだけについてみれば、みんな何かの角度で当時の狭くるしくて、職人風な「文壇」の否定であった。せまくるしい文壇文学・私小説の枠をやぶって発展したいという文学者自身の要求にそくして云われているかのようにみえるところさえあった。そのことはまた、大衆の生活と全く遊離してしまっている「文士」の生活、「文学」の内容などにいつもあきたりないでいる大衆が、もっと生活に密着した文学を、と求める声に応じてその要求をとりあげるよりヒューマニスティックな文学論のようにさえうけとられたのであった。しかし、現実は反対であった。ファシズムの文化政策はその溝をとおって作家と知識人の批判精神をふみつぶし、よらしむべし、しらしむべからずの大衆性[#「大衆性」に傍点]へ追いこんで、大衆そのものの人間性さえ抹殺するたすけにした。
 今日、中間小説が一部の作家から現代文学の正統的な発展であるかのようにいわれている。だが、わたしたちが世界史のすすみゆく現実と、日本の人民の未来とを着実にみとおして、本当に日本の文学がより多数の日本の人々のヒューマニティを語るものとなるような創作の方向をみいだそうとするとき、現実と文学の関係において、作家の人間的・社会的責任をひきぬいた風俗描写一点ばりの中間小説なるものを果して歴史にたえる文学の創作方法として見ることが可能であろうか。



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
※「宮本百合子選集 第十一巻」は発行されなかった。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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