川啄木、小林多喜二など、誰一人として「抽象的な情熱」をもって語り、それを宣伝した人はなかった。これらの人々の情熱は彼らの生きた歴史のゆるすぎりぎりのところまで具体的であり、生活的である情熱であった。現在、わたしたちに必要なのは、饒舌的な抽象的な情熱ではない。
作者はまた、当時文学とよばれる分野に入りこんできたいかがわしい出版物について注意を喚起している。たとえば、ある作家によって『文芸』にもちこまれ、発表された勝野金政の「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」という小説[#「小説」に傍点]について。この筆者は警視庁の特高課から手記を出版されたパンフレットの執筆者で、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から脱出[#「脱出」に傍点]してきた見聞記と称して「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]」を発表した。また、トロツキーの「裏切られた革命」を大綜合雑誌が別冊附録としたようなジャーナリズムの気風についても見のがしていない。文学とそれらの著述の本質が全くちがうものであることを、文学者としての良心と責任とにおいて明かにしようとしている。このような事実も、今日のわたしたちのように幾種類もの「脱出記」をよまされる者にとって、なにごとかを告げる主題である。また、一九三七年にどこからその基金がでたか分らない「新日本文化の会」というものが組織されて、それはもと警保局長松本学と林房雄、中河与一等によって組織された文芸懇話会の拡大されたものであったことも記録されている。これも注目されていい。かつて保護観察所長をしていた思想検事の長谷川劉が、現在最高裁判所のメムバーであって、さきごろ、柔道家であり、漫談家、作家である石黒敬七、富田常雄などと会談して、ペン・ワン・クラブというものをつくることを提案している。名目は、腕力のあるペン・マンによって、盛り場のゴロツキを征圧しようというのであったが、このことは、今日らしい戦後風景としては笑殺されなかった。すぐ新聞に、それに対する批判があらわれた。そしてそれは当然そうあるべきことであった。一九四六年、日本の民主化が良心的に課題とされたころ、軍国主義精神の日常化された姿であるとして、講道館は閉鎖された。こんにち講道館は大々的に復活し、プロ柔道とさえなっている。ジャーナリズムは、天皇もので企画の貧困をしのいだ。
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