整備せんとした第三期に属す時代において書かれたものであった。各論文は、当時の文学的動向に対して常に緊要と認められた問題にふれているばかりでなく、プロレタリア文学の若き一人の支持者として「『敗北』の文学」(一九二九年)を書き、又「過渡時代の道標」(一九三〇年)を書いた筆者自身が、かかる急速な左翼文化・文芸運動の波の裡にあって、強固な一階級人として発育して行った過程をも亦窺わせるのである。それやこれやを合わせ考えれば、この評論集はその長所においても欠点においても、今日の読者にとっては既に日本のプロレタリア文学史の上の一古典となっていると思われる。例えば、初期の左翼芸術理論に深甚なる影響を及ぼしたプレハーノフやデボーリンの理論は、一九三二年以来高められた国際的な哲学・芸術理論から検討によってその理論における一部の誤謬が認められているのであるが、筆者は既に当時それらの成果を十分摂取して、既往の評論中に認められるプレハーノフ、デボーリンの理論的影響を自己批判し、述作の上にそれを示すことが不可能な事情におかれていたのであった。
 社会主義的リアリズムの問題の提起は、我が国左翼文学理論に実質上大なる前進を可能ならしめた。蔵原惟人、この著の筆者などの諸論中に、方向においては正しく而も哲学と芸術との特殊性における分別においては明徹を欠いて示されていた世界観と創作方法との相関関係に就ての点、政治の優位性と芸術の特殊性との具体的・現実的究明等に関する諸問題の理解は、今日、数歩の前進を示している。又、最近二三年来の社会情勢の変化とそれに応ずる文化・文学の動向は、左翼文学の活動の形態を、これらの評論が執筆された時代におけるがままの姿で行うことを不可能ならしめている。
 然しながら、そのような今日の到達点の内容こそ、実に積極的に評価され、批判されなければならぬ過去のこれらの努力の集積の上に展開されたものであることは、言うまでもない。芸術価値評価の規準についての論究、社会民主主義文学派の動向に対する注目の必要、文学における大衆性の課題、文学における同伴者性の究明等は、それぞれの時代の文学批評の分野において常に絶えざる関心を刺戟される急所である。特に、最近世界情勢の必然から文化・文学におけるヒューマニズムの運動が擡頭しつつある折から、批評文学にとって以上の諸要点は更に益々その錯綜した具体的諸関係の
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