う。菊池寛にそのようなものとして描き出された天女が、諸国にすまって
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きずなは地にあこがれは空に
冬すぎ春来て暮すうち、いつしか
おゝ詩はやわらかい言葉のためにあるのではない
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とうたい出すようにもなって来たということは、ほんとに面白いことだと思う。現代の天女は話しがないどころか、自身が女の習俗で習慣づけられて来た「論理のどもり」を自ら知り、「素描」の新鮮な感性の価値を影響に研こうと欲し「女性は文学に死せず」や「皮膚をきたえん」には女性と芸術との厳しく隠微な関係さえとらえられ考えられうたわれている。
永瀬さんが今日の日本の女性の詩人として示している独特な美と力とは、女心が縷々《るる》として感じてうたう自然発生の魅力ばかりを鑑賞されることにたよっていないで、女が考える、という合理的な事実を承認して、それをまざまざとした感性で表現してゆく天稟をもっているところに在ると思う。「ギリシャの海では」「デカダンスは」「約束せぬ恋」「女性の価値標準」などは、そういう意味で女の成長のためのたたかいをうたってもいる。
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女性としてかなしいくらいふしぎな責任。
それは絶望してはならないことだ。
それは天地の底からの母親ごころがゆるさないのだ。
古今のすぐれた女性は皆この人生へのいたわりを持っている。
デカダンスは男のものである。
特に現代に於いては。(デカダンスは)
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竹内てるよさんの「静かなる愛」の表現とこの永瀬さんのこの詩の言葉とは何と相異しながら、女性としての感覚においては同じ本質をもっていることだろう。
永瀬さんは、女の歴史、日本の女の成長の酸苦を「麦死なず」のなかにうたっている。
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私らにとっては樹木が自然の季節を知るように自明であることはなんにもない。
どんなことでも私らは迷って見なければならないのだ。
彷徨しないために一生さえ彷徨しなければならないのだ。
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その女の歴史の切ない必然を見ることをしない男たちは
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自分らの不明を反省するより
浅はかな理想の幻影に
エキセントリックなまでに殉じようとした彼女らをあざける。
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と、正当な怒りが向けられている。「麦死なず」という石坂洋次郎の小説があった。そこでは歴史の或る時代の或る種の女の動きが、劇画化されて描かれた。題が同じだということばかりでなく、この「麦死なず」の詩に女の真情的なもので同じ現象が見られていると思う。女には
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しかしその時期の間に
少くとも年輪は一個ふえた
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事実が感じられているのは意味ふかいことである。
すべての詩を愛す女のひとたち、あらゆる文学の仕事を愛しそれに従って行こうとする女の人々に私は特にこの詩集の中の「流れるごとく書けよ」の一篇をおくりものとしたい。
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(前略)
あゝ腐葉土のない土に
種まく日本の女詩人よ
自分自身が腐葉土になるしかない女詩人よ
なれよ立派な腐葉土に。
あらゆることを詩でおもい
あらゆることを詩でおこない
一呼吸ごとに詩せよ。
日記をかくようにたくさんの詩をかけよ
手紙をかくようにたくさんの詩をかけよ
(中略)
時々刻々に書き書けば
成りがたい彫心縷骨の一篇よりも
更に山があり谷があり
貴女の姿のまるみのみえる
逆説的の不思議はそこに
普段着のごとく書けよ
流れるごとく書けよ
まるでみどりの房なす樹々が
秋にたくさん葉をふらすのように
とめどもなくふってその根を埋めるように
たくさんの可能がその下にゆっくり眠るように。
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女は女自身女の詩[#「女の詩」に傍点]という観念の枠が、時のあゆみのなかでもうはずされていいことを知らなければならない。一人でも多く、妻となり、母となり老婦人となってそれぞれの真実に立った詩を生む女詩人が生れなければならない。日本では男でさえ、詩情は青春の発露のように思い、またその程度の人生感銘の精神しかもたない例が多い。詩人らしいということは、線が細いと同義語のようにつかわれ、いくらか鋭い感受性といささかの主観のつよさと、早期の枯凋とを意味するとしたら、それは人間としてくちおしいことだと思う。
習俗のつよい圧力は、女が詩をつくる心をもって生れたという一事で既に、その人の人生に或る摩擦と波瀾とを予約するというのが私たちの生きる現実のありさまである。けれども、女一人を波瀾に導くその力そのものがとりもなおさずそのひとを立ちあがらせ、やがて歩ませる力でもあるということは、つきぬ味のある実際である。そのことは竹内てるよさんの生活と作品との関係を見ても誰にも分ることだし、『諸国の天女』をよめば、詩というものは不幸のなかに在ってその人をくずおれさせないばかりか、不幸をへらそうとする人間の不断の向上の努力そのものの表現であり得ることさえ理解されるのである。
永瀬さんが益々詩想をすこやかにゆたかにして、時流の観念化に押しながされず、安易な象徴にかがまず「糸針抄」の精神の輝きをいよいよ増して製作されることを祈っている。[#地付き]〔一九四〇年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「新女苑」
1940(昭和15)年10月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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