ンの成長のあいだに、ブレークとの心持も次第に展開して、彼女は一つの結論とでもいうものに到着した。それは、人間と人間との関係は、その理解にそれぞれの限界があるということであった。マークもブレークも、マークなりに、ブレークなりにスーザンという一人の女性を見ようとした。彼女はそれぞれに求められたものを惜しみなく与えたのだけれど、この肉体と精神との天賦ゆたかな女性はマークが彼女に求めただけで全部でなかったし、さりとて、ブレークが彼女のうちに目醒めさせたものがスーザンの全部でもなかった。彼女という一つのゆたかな輪の上にマークという輪、ブレークという輪が交錯し合ったけれども、二つの環が完全に重なり合ってしまうということはなかった。男は、自分一人で彼女のすべてを充しきり独占してしまえないことが判ると、堪えがたく焦燥して彼女から去って行こうとする。
 ブレークは、スーザンと暮した年月が幸福であったこと、そして多くのものを与えられたことを知っている。だが、窮極には自分というものをありのままに出して生きるつよい一個の女性としてのスーザンは、彼にとってどう扱っていいのか分らないものとなって来た。その意味からも二人の結び合いは、もうすんでしまった。もしスーザンが、もっと違った人間だったらどうだったろうか。そしたら、ブレークは彼女を恋愛することもしなかっただろう。
 スーザンは、ブレークの云うように、今は過去のものとなった自分たちの生活の経験をただ去りゆく影として見ることは出来ないのであった。彼女の命にとって、一度それにふれて来たからには徒《いたずら》に消え去ってゆくものは一つもないと思われた。マークは死に、ブレークは去ってゆくけれども、彼等との生活でスーザンの得たもの、彼等が彼女の胸に投げた影は、どれも意味ふかく経験の一つとしてつみ重ねられてゆく。どんな小さい経験もそれを精魂こめて経験したものにとっては、ただ消えてゆくことではないのである。スーザンは、そこに自分の命を貫いて脈々と世代を重ねてゆく人類の命の本質を感じるのであった。
「この誇らかな心」のスーザンをこのような女性として描きながら、パール・バックはこの一篇の小説のなかに、自身の芸術にたいしての見解の一部も述べているのである。
 私たちの心には、自分の生活というものをはっきり掴んで生きてゆきたいという、やみがたい希望があると思う。そ
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