沿岸の軍閥が擡頭して、白人の事業を破滅に導き、それがやがて辛《かろう》じて老父の屍を葬る二代目イーベンをせき立てて宜昌から遁走させる「偉大なスローガン」の怒号と高まって来るまで、作者は身についている揚子江航行の知識を十分に発揮して手堅く描いている。作品の構成がもっと立体的であって、いくつかの重大な出来事――アプトンの死。ホフマンの死。萬縣《ワンシェン》での流血の闘争など、もっと色彩づよく描写され、同時に揚子江の壮大な自然や白人の日常生活の姿などが遠近をもって描き出されたら、この作品は一層面白く、芸術的な香気をもたかめたことであろうと思われる。作者は、取扱おうとしている現実にはよく通じているのであるけれども、作品での構成は、規模の大きい割にルーズであり、平板であり、筆致もやや粗いのは遺憾である。このために、中国の生活の推移を語る莫莫《モモ》やキータの性格や行動が漠然としてしまっている。軍閥の擡頭が、揚子江における白人の回漕業の発展とそれによる密輸に大きい関係をもっていると同時に、やがてその事業を潰滅させる力となるという興味津々たる個所も、作者は事実が要求としているだけの奥ゆきをたっぷりとらずに書いているのである。
 これらの遺憾な諸点にかかわらず、この一篇は、有益でもあり、示唆に富む作品である。翻訳も流暢と云えないまでも、忠実にされていることがわかる。「支那ランプの石油」その他この作者の作品を読んで見たいと思わせる作品である。
 注意をひかれるのは、この作者が、「外国人は全部四川省からも揚子江からも、いまに追い出されてしまうようなことになりましょう」「われわれはこの民族の偉大な興隆のほんの始まりに居合わせただけなのです」という観念と「かれらは受身でおとなしく、機械のなかにあるなにか攻撃的なものを排撃します。それでいて、西洋文明のうちでもいちばん悪い戦争の道具はこれをとりあげるようなはげしい気性をうちに持っているのです」という所謂《いわゆる》民族性の解釈とを、自身疑いを抱くところもなく並列させているところである。最後の特徴を中国民族の性格のうちにある自家撞着と見るところは、これ又何とバック夫人の見解と似ていることだろう。作者たちが、そこでめいめいの半生を費しているにもかかわらず、中国の人民というものの理解に絡みつかせているこの自家撞着は、二人の作家が婦人だというような偶
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