化があれだったのか」と梶は云い捨てているが、梶のヨーロッパの現実についての理解力は、日本の現実についての理解と同然、腹立たしい迄に貧弱、且つ誤りに満ちている。
 自国の文化を十分に理解していないものがどうして他国の文化を理解することが出来よう。梶は、そのことの生き証人の如き観がある。梶は、国際列車にもまだ沢山の乗換場所がいる、というような言葉を機械的に暗誦し易いフレーズにまとめて云っているのであるが、この見解がもし作者自身にとって具体的な内容で把握されているのであったら、関西財界の大立物であるという友人に向って「日本の左翼はスターリン派かトロツキー派か、どっちが有力なんだ。君聞かないか」などと日本の実際から離れた奇問は発しなかったであろう。「日本も累進率の税法で、これから文化がどしどし上る一方だよ」という理論は、常人にとって全く理解し難い。それを、「梶は日本の変化の凄まじさを今更美事だとまたここでも感服する」というのは、いかがしたことであろうか。
「厨房日記」をよむと、この作者が外国でも日本でも、質のよくない情報者というか、消息通にかこまれていることがはっきり分る。それらの人々から断片的にあつめたインフォーメエションの上に立ち、而も作家としての立場からそれらの情報、説明を現実に照らし合わせて正当に判断するだけの力はない作者の無知が、言葉の綾では収拾つかぬ程度にまで作品の生地に露出している。それだけであるならば、従来もこの作者が現実に対して十分の理解をもっていなかったことの連続として、読者は新しく遺憾の意を表するに止るであろう。然し、「厨房日記」には、作者の現実に対する無知に加えられた何かがあることを感じさせられる。同じ程度の現実に対する無知がその実質であったとしても、これまでの作家横光は、少くともその作家的姿態に於ては、何か高邁なるものを求めようとしている努力の姿において自身を示して来た。内容はどういうものにしろ、高邁な精神という流行言葉が彼の周囲から生じていた。この人生に対して誠実げな足の運びで、登場していたのであった。その点で、一部の読者が彼の作品を判読したのであるし、マーケット・プライスが保たれたのであった。
「厨房日記」は嘗て高邁を称えた作家にふさわしい何物かを芸術としてのこしているのであろうか。「虚心坦懐とは日本でこそ最も高貴な精神とされているが」「今のと
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