夕方かえると、子供達は、いそいそとして挨拶に来、彼女を悦ばせます。彼女と子等との関係は、父親のそれとよく似ていました。
お行儀を教えたり、根気のいる初等学科を教えたりすることは、皆、児童心理を専攻した家庭教師にまかされています。ロザリーと子供は、互から愉快ばかりを感じ合うものとして生活したのです。
ところが、長男が小学に入る頃から、先ず良人のハリが、自分達の子供に、何か、よその子供とは異うところのあるのに心づき始めました。
良人がそれを云い出した時、丁度ロザリーは銀行からシンガポールに出張を命ぜられたところでした。彼女は仕事のことだから当然として承諾しました。けれども、良人は、結婚後始めて、「女は違う、子供をどうする?」と云う言葉で快諾しません。ロザリーは、苦しんでいた時なので、良人のその注意を意味深く解しましたが、彼女の明晰な頭脳は、自分の感情で物を歪めて見ることは免れました。良人の言葉は本当でした。二人の大きい方の子供達は、確によそのその年の子供のように、無邪気で、愛らしく、感情が柔かくありません。いやに理窟っぽく、一人よがりで、ちっとも心のとけ合うと云う点の無いのにロザリーは驚きました。
熟考の後、ロザリーの書いたのは、辞職届でした。彼女は比類のない婦人事務家としてフィールド銀行に持っていた地位を惜しげもなくすて、子供達を自分で見て行く決心をしたのです。彼女は、女性の理屈のない執着強さ、一つものを見始めると傍を見られない偏狭さを日頃から嫌っていました。彼女にとって職業を持つことは、意地ではありません。最もよいと思う人間の生活を創る為なのだから、彼女の理性は、更に大きな要求、子と彼女自身、又良人の希願だと思われた家庭への復帰を認めたのでした。
新しく落付こうとする家庭生活の裡に、ロザリーは、熱心に自分を打ち込もうとしました。すてた仕事を忘れ切る丈の集注を行おうとしました。彼女は早速今迄の家庭教師を解雇し、自分で子供達に本を読んでやり、散歩に伴をし、遊び仲間に入ろうとしました。が、近頃の子供は何と云う変ったことでしょう。
ロザリーは、九ツの男の子が、物語に対して「そんなことは嘘ですよ。詰らない! 春、夏、秋、冬の花が一どきに咲くなんて! 温帯や寒帯の植物は、熱帯になんかありません。僕知ってらあ」と云う風です。
可愛い女の子のドラは、ロザリー自身が熱中して聞いたお話に、つまらなそうな表情を示します。まるで空想のない、まるで感興のない子供達。ロザリーが選んでつけた学問のある家庭教師は、真理、事実の外何も子供達に教えなかったのでしょうか。
彼等は、外から見ては一点非のうちどころのないばかりか、その怜悧らしい、訓練のある挙止は快いものです。けれども、彼等の母ロザリーは、暫く彼等と朝夕を倶にして見ると、いくら食べても満足することのない見事な料理を押しつけられているような奇怪な空虚さを感じました。彼女が求めていたものは、ありません。
フィールド銀行と云うものが、又ロザリーの心に這入《はい》って来ました。再び職業に戻りたい熱望は堪えがたいものです。ロザリーは、種々に苦しみました。
良人は、家庭の為にと云って、それを賛成しない。彼は義務を云々します。彼女は、こう云う場合自分が男であったなら、何の面倒なことがあろうと思わずにはいられません。男ならば成功した仕事を持ってい、たといそれを一旦中止したからと云って、再びそれを取上るのに何の故障を云い立てられましょう。
「それが男なら、勿論そうしてよい。彼は二度とそのことについて考えないでしょう。又若し二度考えたとしても、あらゆる意見習慣が彼にこの権利のあることを告げるでしょう。それが女だとなると、だから――もうそれが理由です。女だ、だから、いけない。それが理由の始りで終りです。女、それ故いけない。ああ、それじゃあ女に可哀そうです」
良人は弁駁します。
「総ての意見、すべての習慣が男にそうしろと云う? 違う、違う。貴女は男をあまり勝手のきく者に見ている。若し彼を反対の方に引とめる義務を持っているとすれば、その男は当然そうしもしないし、そうしろと云われもしやしない」
「けれども、そこが大事な点ですわ。男のひとは決してそんな義務を持ってはいないでしょう。男がいつでも自分の義務と大望とをうまく両立させているのは明かですことよ。本当に、それは、注目すべきことです」
「ふむ。――それなら別な風に考えて見給え。その男にとって、仕事に出る必要なんかはちっともなかったとして見給え。その男が出かけることでは何もおかげを蒙らないが、却って家にいると云うことには、多くのものが懸っているとして見給え。同じことになるじゃあないか」
「ああ、それはそうです。けれども、それも結局前と同じことになります。ひとは、そう云う境遇にいる男の人に云うでしょう。
『おい君、自分の大望を取りあげ給え。君は男だ。我と云うものを考えなけりゃあいけない』これが人々の云うことでしょう、ね、私の云っているのもそれです『私は女だ。私は自分を考えなければならない』」
良人は、意味をこめて訊きます。
「そして、自分と云うものを考えてくれるか?」
「私は毎日――考えています」
このような対話が良人と交されているうちにロザリーの心は段々しっかりして来ました。彼女は、自分の心の中にある感傷的なものと敏感さとの区別を見出しました。これまで彼女を成功させ、幸福であらせたのは、そのときの種々な状態に下らない感情はぬきの、思慮ある判断力で対したからでした。ロザリーは、自分が自己の生活や幸福を、家庭と仕事にひかれる半々な心持で、破滅に陥れそうになっているのに心づきました。
ロザリーが、これ等のことに心を悩している間に長男のハフ、長女のドラは、悦び勇んで寄宿学校に行ってしまいました。いよいよ彼女の心はきまりました。
良人は依然として「子供達は家庭に対して権利を持っている」「婦人の家庭に対する分担持場が違って来たら、世の中はどうなるだろう」と云って、彼女を家庭生活にのみ繋《つなご》うとします。彼女は、決然とそれに対し、男が父親であるとともに自由に邪魔されず仕事を持ち続ける通り女性も母であると同時に家庭生活に煩わされず自分の仕事を継続し得るべきものと云う理想の為に、再起したのでした。
彼女は自分を来るべき女性の時代に先立つ一人の偵察者、冒険者としたのです。
数年は、又順調に過ぎました。
ところが長男のハフが十六七歳になると、続いて、悲しむべき事件が起り始めました。
ハフは、三度も落第して、父親の卒業した名誉ある学校を退学させられました。
ハリは、その時、「彼は頭はあるんだ。勿論、指導者を見つけてやることも出来る。然し、あれの持たない、そして持つことの出来ないものが、ハフに学校をやめさせるのだ」
ロザリーが「それは何ですの?」と訊いた答えにハリは、厳しい調子で、
「家庭!」と答えました。
ロザリーは、
「貴方は私共に責任があると仰云います。けれども、貴方は私共二人のお積りじゃあない、私、を云って被居るのです。何故、私ばかりが貴方より多くの責任を負わなければなりませんの? 何故、非難されるのは私ですの?」
そして、がっかりしたような身振りをして呟きました。「ああ、ああ、又あの理由!」それは、彼女が「女だから」と云うことです。
もうロザリーは、この為に銀行の仕事を放擲しようとなどは思わない女性の一人になっていました。欧州戦乱が折から勃発した当時の英国の社会には彼女が教育上責任を転嫁し得る多くの欠陥のあったことも事実です。
夏中休暇に、友達の処に滞留している筈であったハフは、ターンハムプトンと云う村で放浪飲酒、暴行の廉《かど》を以て拘引されました。当時、間牒審問に関係していた父親のハリは、偶然間牒事件でこの村に出張し、思いがけない息子と法廷で顔を合わせたのでした。
父の名望の為にことなくすみ、ハフは、当時の青年の流行通り、軍隊に加りました。早速フランスに出発すべきであったのに、ロンドンの盛り場で妙な女と遊び歩き、帰隊を後らせた為、軍法会議に附せられました。今度も父の有力な地位と戦時中のおかげで、直ぐ戦線に加ると云う条件で許されました。が、平和が調印され、学生と云うので早く兵籍から放たれた二十歳のハフは、ロンドンに帰ると学業などはそっちのけで素姓もわからない喫茶店の給仕女と結婚し、悪い仲間に誘われて、曖昧至極な会社を作り、家へなどはよりつきもしません。
遂にそのことからハフはフランスまで高飛びしたのを捕えられ、六ヵ月苦役を宣告されることになりました。
長男であるハフにこれ等のことが起っている間、娘のドラは、又悦ばしくない状態にありました。彼女は、母のロザリーに何の親らしい愛も感じていません。十八になったばかりの彼女は、贅沢な学校の寄宿生活を終り、家には眠りに来ると云うばかりの有様です。数限りのない友達、絶間ない招待と訪問、その交際範囲は、彼女を呼び出すばかりで一向、両親の家へは訪ねて来ないと云う種類のものです。
美しい縹緻よしのドラは、憚りなく「ああ本当にうちは退屈だわ。早く誰それさんのところへ行きたい」と云います。男の友人と、気位のない交際をしているのを知って、ロザリーが注意を加えても何もなりません。だらしのないのをやめさせようとしても、ドラの云うことはこうです。
「そんなことは子供のうちに仕込まれるべきことですわ。おかあさんはきっちりしていらっしゃるけれど、私にはただの一遍だって始末よくするようになんて教えて下さらなかったことよ」
そして何かむずかしくなると、
「私おかあさんに産んで下さいとお願いして? 自分勝手に私が産れるようになすったのじゃあないの? そうじゃなくって? 私自分で定めたんじゃあありゃしないわ、これ丈は決して忘れないことよ。決して!」
一番末のベンジャミンはこの二人とは違いました。静かな、学問に凝る、今は唯一の父様っ子です。母のロザリーに対しては、勿論実におだやかで親切ですが、彼女が求める率直な感情の吐露は欠けているように思われます。
ハフの不名誉な事件後ドラは愈々家におらなくなりました。それどころか、或る晩、ロザリーは予想もしなかった、娘の臨終にめぐり会うことになりました。
少し以前から、ロザリーに様子が変だと心づかれていたドラは、一人の女友達の部屋で何か医者の明言しなかった理由の為に危篤に陥り、一晩の苦しみで到頭死んでしまいました。悲しさでやっと我を支えているロザリーが、最後にドラの名を呼んだ時、瀕死の娘は、もう何とも云えない嫌気に満ちた溜息とともに、
「あ、おかあさん!」
とつぶやきました。
突然死んだドラの唯一人の仲よしであったベンジャミンは、翌日、夕刊に、ドラを視た検屍官の逮捕状で一人の男が検挙されたのを読むと一寸出て来ると云ったぎり、もう再び生きた姿を両親に見せませんでした。彼は、警察署に行くと、捕えられて来ていたその男を死ぬ程|擲《たた》きのめし、自分は程近い地下鉄道に轢かれて命を落してしまったのです。
ああ神様。ロザリーは良人に云いました。
「子供達が悪かったのではありません。私が天の命に背いたのでした」
彼女は、ドラの没くなった翌朝、フィールド銀行に辞職届をかきました。
二人の子を失い、一人の子も恥辱の裡に持つハリとロザリーとは、魂の底から互の心を感じ合いながら擁き合いました。
これほどの苦痛も、二人で耐えてこそ耐え得ました。
今は、総てがよくなりました。ハフは出獄して、カナダにい、心を入れ更えて家郷への音信を怠りません。彼が、虐待し、早死した妻との間に生れた娘のロザリーは、名づけの祖母を母と呼び、ロンドンで一緒に暮しております。
小さいロザリーは、三度の御飯も皆と一緒に食べるし、褓母や家庭教師と云うものも持っていません。
大喜びで朝飯をしまうと、ピョンピョン片足で飛び廻りながら、可愛い声を張りあげて呼び立てます「お稽古! お稽古!」
彼女の子供らし
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