も人によって、感性のタイプにちがいはあるだろうけれど。私にすればああいうところをもうすこし悠々とみせて欲しかった。
 この切り抜きを習う場面と、鋏を使う面白さを覚えたばかりの子供が家へかえると何の切りぬき絵も持っていないところから、母さんが縫ったばかりの着物をジョキジョキとやって、母親はそれを悪戯として当惑し、保姆はああ本当に鋏を使いはじめたことお知らせするとよかったんですね、と実際から教えられる一つの插話は、この映画にとっては本質的な問題がそこにあらわれたものだったと思う。単なる插話という以上の子供と大人の生活のいきさつが圧縮されて出ているので、こまかに事柄を追ってみれば、ここに叱る母の無理なさ、つい鋏でジョキジョキやってしまった子供の邪気なさ、その家ではその頃子供に切りぬき絵を買ってやることに心づかないでいる庶民ぐらしの肌合いというものが、まざまざと出ている。
 保姆はあのきずものになった着物を眺めて、子供が鋏を使いはじめたことを母親に知らせるべきだったとだけ云っているけれど、この現実のいい機会に、子供の遊びが大人の世界でのいたずらに辷りこむ微妙な関係の説明はされなかった。別の場面の母さんの会では、子供の叱りかたについての質問が出されていて指導者は叱りつけるより先に先ず母がその子がそれをしたわけを考えるようにと教えている。その質問も答えも、質問と答えとの限りでされているのだが、もし、あの切抜き遊びと着物を切ったいたずらとの場面で、その叱りかたの生きたモメントが展開されたらどんなに啓蒙的な効果があっただろう。
 制作者たちが、この場面を、一つの插話なみにしか扱わなかったのは残念だった。保姆は、母親に切り抜き絵を買ってやれというには及ばないので、何か切ってもいい紙をあずけてやるんですねと一言方向を示せばいいのだろう。鋏を使っていることを知らせるんでしたねと保姆が云えば、ほんとうに、そうと知れば鋏をとりあげておいたのに、という方へ頭が働く。これまでの大人のそういう習慣を、果して観衆の全部が自分のこととして反省するところまで行っているだろうか。
 切り抜き絵の插話が、一插話として軽く扱われたから、自然保育所での光景と家で母親が着物をひろげて見せる場面との間の脈絡に特別な注意が払われることがなかったわけでもある。
「保姆」ではカメラがつつましい洋服屋さんの仕事台のまわりや
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