供御なんかも召さずゆっくりと御寝にもならないと云う事を入道相国がきいて「君は小督の事に思い沈んでいらっしゃるのだろう。それなら」と御なぐさめ申す女房達を一人も参らせないで参内する臣下達らもとやこうとそねまれたので誰も入道の勢を恐れて参内する人もないので禁中の有様今までとは打って変ってその静かで淋しい事はいたいたしいほどである。君は小督の事に思い沈ませられて昼は夜の御殿に許り居らっしゃって夜は南殿にお出ましになって月の光に御心をすませていらっしゃる。丁度頃は八月の十日余の事なので一寸もくまない空だけれども御涙に曇って月の光はおぼろおぼろである。主上は人や候人や候とおっしゃったけれ共御返事をする者もなかった時にややたってから弾正の大弼《だいひつ》仲国、その夜丁度御前近う宿直して居たので「仲国」と御答え申して御前に参ると「仲国近う参れ、相談したい事がある」と仰あるので仲国御前近う参ると「あんまり突然な事であるけれどももしか小督の行方を知って居ないか」と仰せになったので「どうしてそうぞうさなく知る事が出来るでございましょうか」と申せば「ほんとかまちがいかは知らぬけれども嵯峨の国の折戸をした家に居ると云う物もあるが、主人の名を知らなくとも尋ねて来て呉れまいか」との仰、仲国は「主人の名も知らなくてはどうしてぞうさなく尋ぬる事が出来るでございましょう」主上は「ほんとうに」と龍顔に御涙が流れて居る。仲国は此の仰せを承るかたじけなさにつくづくと考えると「ほんとうにあの方の内裏で琴をお引きになった時常に笛の役に召されて参って居たものをたとえどこへご座いらっしゃるにもせよ此の月の隈ない美くしさに君の御事を思い出されて琴をお引にならぬ事はよもないだろう。嵯峨にある家はそう多くはないからその戸毎をまわって尋ね奉ったならば其の方の琴の音ならばどこに居ても聞き知る事が出来るものを」と思ったので「さようならばたずねて参りましょうか。たといたずね合っても御書を頂戴いたしませんではあてのない事だとおっしゃるかも知れません」と申したので主上は御書を御書き遊ばして給い「料の馬に乗って行け」と仰せになったので仲国は御馬を給わって明月に鞭をあげてあてもなくあこがれて行く。おじかなく此の山里と詠じた嵯峨野の秋の暮の景色にさぞや哀を思ったろう。片折戸にした所を見つけては若し此の処に居らっしゃりはしないかとあるこう
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