、奴隷化した精神という言葉をきいてさえ、それらの人々はただ冷笑して平気であるほど、きょうの日本文学の精神のある部分は性《しょう》がぬけきっている。
さて、わたしという一人の作家が、ここに書いて来たあれやこれやの思いにかられて、延々たる長篇の、辛うじてその中途へまで辿りついたとき、二つの肩はずっしりとした明日からの仕事の重さを感じているばかりであるのは、当然ではないだろうか。わたしは「道標」三部をかいて、やっとトンネルだけは出たように感じる。社会主義リアリズムの方法は、わたしにとって、「それによって創作する」という方法――ジョイスの方法と伊藤整の小説のような関係には、なかった。わたしらしい、はためかまわずの方法で「道標」をかきはじめ、かきすすみ、中断しないで書き終ることで、作品とともに、女主人公の成長とともに段々社会主義リアリズムという方法がふくんでいる現代の諸課題のいく部分かを会得できはじめたように感じている。少しわかりかけてみると、少くともわたしとしては、「文学」というものについての諸理解の常套性や文学を通じてわたしたちの生活感情にもちこまれている人間理解の型のふるくささに、びっくりしているし、政治と文学との具体的関係についての粗末な先入観にもおどろかされている。日本語の特別な性格についても、おどろいている。(このことは別にふれたいと思う。)
従来の文学評価では、ある作品は特定の個人の才能の精華という風に考えられて来た。プロレタリア文学運動は、文学発成の社会的・階級的基盤については個人主義を超克したモメントを示したのであったが、作家と作品とそれに対する批評の関係では、やはり作家個人に執する古風さを脱しなかった。
社会主義リアリズムの批評の方法は、この点で、人間理性の普遍性ともいうべき素質をもっともっとゆたかにしてゆくだろうと思う。ある作品に対して批評する場合、その作家個人の能力の限界、その作品のかかれた歴史の性格そのほかを客観的に展開して読者に示し、ほかの誰かが、その一人の作家の可能性では及びがたかったのこりの部分を更に独自的に発展させて見ようとするようないい刺戟をうけるように{し}なければなるまい。批評の方法もそんな風に創造的な、展望を示してぼんやり眠っていた他の文学的独創力をめざませるような作業とならなければ、現代小説の大部分が歴史の進行から全くずりおちていると同じに失喪されている批評の能力に新しい生命を与えることはできない。
世界の現実はこんなに巨大で複雑で、はげしく動いている。資本主義社会の内にうまれて、すでにその社会の人間性分裂の操作に多かれ少かれ害されているわたしたちが、自身の様々な不十分さとたたかいながら、なお人類への希望を失わず、人間再建のために自身の民族としての独立と戦争という世界人民に対する殺戮の行為に反対して文学の仕事をしているということは、われわれ文学がそのような本質に立っているというそのこと自身、民主的な人民の文学の連帯的性格を語っていると思う。別の言葉でもっとあからさまに云えば、わたしは、「伸子」につづく「二つの庭」や「道標」およびこれから書かれる部分を、自分のもの[#「自分のもの」に傍点]とは思っていない。きょうに生きるみんなのものであらせなければならないと思っている。みんなのものなのだけれども、文学作品がつくられてゆく現実の過程として、特にああいう種類の作品は、一人の作家の社会人間的・文学的努力を通じて形成されるしかない。それをやりとげることは、わたしたちの文学陣営に対する、わたしの義務であると思っている。わたしの最大の能力をもって、そのひとつらなりの文学作品の世界をみんなのものとして実在させてみる責任があると思っている。しかし同時に、わたしには、どのようなブルジョア文学者も知らないような一つの信頼感がある。その信頼感は、自分の文学上の力量に関するものなどではなくて、われわれがどのように生きつつあるかという日々の現実、そのいまはまだ語られざる真実についての信頼感である。これを逆にいうと、いくらかおかしいことにもなって、たとえわたしは、この長篇をへた[#「へた」に傍点]に書くかもしれないけれども、人間・文学者としていかに生きるかという点で、作品を生きこしている現実が自身の良心に確認されているなら、作品はそのような歴史の中でおのずからうけるべき生命があるという信頼である。わたしたちの立場にある文学者の人生と文学とは、生きつ、生きられつの関係にしかあり得ない。人間の事実としてみても、常に、いかに作品がつくられるかというよりも先に、いかに生きつつあるかが問題である。自分が生きつつある歴史の地点のどの位手近いところまで作品をひっぱりあげることができるか。それが力量というものであろう。そして、かかれた作品はどの位強固な歴史の証左として存在しそれを書いた作家その人さえも、その作品の世界よりうしろには退かせない力として確立されるか。これが作品の古典性につながるのだろう。真に能動的な文学者は、自分の生活の同じ平面をせわしくかきさがしていくつもの作品を手早くまとめるということだけではないと思う。社会と人民の歴史の発展する段階の本質をどの位正確につかんで文学に再現するのか、そしてまた、すでに書かれた作品はすでに生きられた作品であるとして、ある作品を書いたときの自分から自分をどんな風に追い出すことができるか。階級的な作家には、このきびしい追いつけ、追いこせが終生ついて来る。かつて書いた自身の古典のまわりにいつまでもうろついていられない歴史のたたかいのうちに自身を生かしつづけてゆくとき、わたしたちは自分の文学作品の到らなさだけをおそれないで生き、書いていいのだというはげましを感じる。わたしたちの最もゆるぎないはげましは、誰にとってもあきらかなとおり歴史のすすみそのものによる実証である。[#地付き]〔一九五一年三月〕
[#未完]
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本文学」
1951(昭和26)年3月号
「展望」
1951(昭和26)年3月号
(同時掲載)
※底本が、親本(「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房)の脱字を補った記号として用いている「《》」は、「{}」に置き換えた。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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