準の低い、何故浪花節が悪趣味なのかも分らない、偉い官吏、軍人、実業家ではない人間の大群として考えられているのである。
作家は大衆の心を語るひと、大衆の生活の喜びと悲しみと希望とを謳ってくれる人として、作家は知識人のうちでもある特殊な地位を与えられていたはずであった。大臣の名は知らない人でも、蘆花や漱石の名を知っていたわけはここにあった。
この四五年の急に動く世相は、大多数の人々の日常生活を脅かして、経済的な不安とともに文化的な面で貧しくさせて来ている。そのことは純文学の単行本の売れゆきのわるさ、その対策の推移を見てもはっきりしていると思う。小説の単行本が売れないといわれて来てから、出版屋は一昨年あたり、いわゆる豪華版というものの濫発をやった。高くて綺麗な本でなけりゃこの頃は売れません。つまり、本の内容からは何も大して期待しない、金のある人だけがこの頃は本を買い、自分たちの日常の不安からもこの世の中のことが本当に知りたいような人々はその逆に金がないという有様になって来た。物価があがる。雑誌を買っていた金は、高くなった洋服の月賦にまわさねばならない。小説を買って、カフェーのマダムをめぐる四人の男の情痴の世界を読むよりは、今日「大衆」の真面目な「大人」の心配は、子供をどうして育てるかにかかっているであろう。
文部省の教育方針が本当にかわれば、中学へ息子をやるにさえ、家庭の資産状態が調べられなければならない。数年前デパートの女店員は家庭を助けたが、今は家庭が中流で両親そろい月給で生計を助ける必要のないものというのが採用試験の条件である。「大人」に憂いが深いばかりか大人になりつつある若い男女の心も、訴えに満ちている。世の中は何故こうなったのだろうか、という問いが体に満ちているのである。
作家がもし大衆の心の描きてならば、この生々しい、生活によって発せられている「何故」という二字をとって、作品の中に生きかたを知らしてくれるはずであった。
ところがある作家たちは、今日直接それを書こうといわず、別な範囲の「大人」の中心問題を大衆に分るように描こうと提唱しているのだが、それならばその「大人」の世界はどんな姿をもっているのであろうか。このことは一つの簡単な質問とその答えとで明らかにすることが出来る。官吏、軍人、実業家の大頭の連中が、待合にゆくのが遊蕩であると考える俗人を脾睨《へいげい》して集合する築地の有名な待合×××を、この新聞の読者の何人が日常の接触で知っているであろうか、という質問によって。――
横光利一氏などが中心に十円会という会があるそうである。明治の初期、戯作者気質ののこっていた通人気どりの文士たちならば、ざっくばらんに「食おうかい」とでも呼んだであろうし、明治末葉から大正にかけての作家連であったらば、十円をつかって遊びながらも文化人、芸術家としてこの人生の発展のために彼等の負うている責任の重く遠いことの自覚を加えて、重遠会とでも名をつけたかもしれない。現代の少壮と目されている作家等が、むきだしに十円会と金だかだけの呼び名で一定のレベルの経済生活と文壇生活とをしているグループの会を呼んでいるのは実に面白いと思う。
十円の金は十円の金で、どうでも使える。死金にもなり、悪銭にもなり、義捐《ぎえん》金にもなれば、自殺の旅費にもなるのである。どっちみち一夕十円標準でやろうと名をつけているのが、文壇人の経済事情、生存感情の推移とその現代性を語っている。菊池寛、久米正雄氏等の間では二十円会とか三十円会とかいうのがあるそうである。十円がもすこし育って二十円という、通俗人の望みの影さえさしていて、面白い。
特に、この三十歳を越して四十との間にさしかかっている作家たち、十円会あたりの人々が主として今日「大人の文学」を唱えている事実は一層私たちに人生的観察の心をおこさせるのである。これらの人々の日常が、ブルジョア的環境にありながら、実質は小市民的であって、謂われている大人(官吏、軍人、実業家)の大頭の世界の中に織込まれてはいない。彼等の支配的、高等的政策にはあずかっていない。そのことが、「大人の文学」を提唱させる心理の奥に作用している。文化、文学を発展させる自主的な精神力の喪失、経済事情の今日の小市民層らしい逼迫などが、微妙にからみあっているのである。小説を書く人より、小説に書かれる人の心の動きとも見えるではないか。
漱石やその後のある時期まで、作家の社会性の弱さは、むしろ彼等の芸術家的自尊心、文化、文学の独善的な価値評価に現れていた。例えば漱石にしろ、文学のことがききたければ、そちらから出向いてくれと時の宰相に対しても腹で思っている作家的気魄があった。そして、彼の芸術も、彼のその気魄も、根底には当時の日本の社会の歴史がインテリゲン
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