た形での機械的なあらわれを示しているという批評が一般にされた。原作者の脚色であったそうだから、作者中本たか子氏も、脚色のときはその点に考慮されたところもあったろう。然しながら、舞台での友代の味はやはり何と云っても本間教子のもので、特に、第三幕第一場の、初めて友代が国婦の班長になって会議へ出た報告を、工場の女を集めてやっている集まりの場面の空気など、どうも中本氏が脚本としてそこを描いたときのあと、教子が演じている気持との間に、極めて微妙なずれがあるように感じられ、いろいろと考えさせられた。
 本間教子は、友代の素朴な熱心な活動的な天稟のままに気稟《テムペラメント》の側から全幕を演じ、この幕もそのようなものとして自然に演じているのだけれど、作者としては、友代のそういう自然発生の活動性、積極的な人柄を、周囲との関係でどう考えて見ているのだろうか。国防婦人会の班長になった友代が、その役目のなかで発揮してゆく能動性について、作者は何と腹の中で見ているのだろう。そういうことにも、大衆の婦人の生活の中にかくされている能動的なものはきっかけをつかんでゆくものだ、という歴史的な目が、情愛をもって注がれているのだろうか。それとも、女のなかにある能動的なものそのものの肯定としてだけの範囲で見られているのであろうか。

 友代の情熱、ユーモア、人間らしい親しみは、いずれも人柄として演じられて成功をおさめているというところも、以上のこととの関連で、芸術上の問題として興味がある。演じいかされているために、脚本にあるそういう本質の課題がつきつめられぬまま、観ている心に舞台の友代は或る共感を与えてゆくのであるから。
 場面場面は十分観衆をひきつけているらしいのに、いよいよ久作も工場へ入る度胸が据って目出度しの幕切れの拍手は、案外にまばらであった。これは明るい幕切れであり、或る意味でのハピイ・エンドなのだが、今日の観衆の生活感情のどういうものがそのハピイ・エンドに満腔の喝采をおくり得なかったか、それは俳優よりも寧ろ作者へむかって観衆が今日の現実から与えた意味ぶかいおくりものであったろうと思う。
 現代、明るさの真実な姿を芸術に描き出すことは決してやさしいことではなく、事件の目出度い大団円がとりも直さぬ明るさとして納得されにくい例は、別な場合であるが徳永直氏の「はたらく人々」の後半のまとめかたにも見ら
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング