を経て「日蔭の村」を描きやがてこの「結婚の生態」を書くにいたった今日までの足どりは、一個の男が世相の間に次から次へと押し流されつつある跡として、そこに惨憺たるものがある。
「蒼氓」はおそらくこの作者が文学としていいものを書きたいと欲して力を傾けた素直な作品の唯一のものであったと思う。この作品によって、素材の規模の大きさやそれを扱う手腕を認められた作者は、「生きている兵隊」では、当時文壇や一般知識人の間に問題とされていた思想の諸課題、例えばヒューマニズムの問題、知性の問題、科学性の問題などをそのまま職場へ携帯して行って、そこでの現実の見聞、情景、插話の中から、携帯して行った観念を背負わせるにふさわしいと思われた人物をつくり出して、一つの小説にまとめた。
「生きている兵隊」は、軍事上の理由から問題となったが、作品の実際で文学の問題となり得たとすれば、それは現実と、その現実が強引に背負わせられている観念のままの観念との結びつけかたの作為性への批判においてであったろう。
 作者がこの作品に対して野心的な態度をもって向ったことは、以上のような文学としての誤りそのもののなかにも十分窺われると思う。作者は当時口々に云われしかも深刻な日本の現実を理由として、当然未解決のまま息苦しくおかれていた思想の諸課題を、戦争の插話的情景見聞の断片と外面的に道具立的に組み合わせて扱おうと試みた。作者としても作中の世界としてもそこに、真の思想の呼吸があり得ないことは当然な現実の帰結であった。
「日蔭の村」は、やや「蒼氓」の線に近づいた傾きを示した作品であったが、ここでは、既に作者の習慣のようになった、あれこれを題材的に按配して書く、という大衆小説の手法に通じる外面的な方法がやはり消極の作用を示した。作品としての現実が渾然と読者の心を撃つというよりは、調査した実際と想像とが文学の現実以前のままのありようでつなぎ合わされていた。

 文学の世界の現実と日々の実際というものとの間にあるこの作者独特な混乱は、或はこの作者が人間としては芸術のかんを持たず、ごく実際的な生きかたをしてゆくように生れついている性格だということを語っているのかもしれない。「結婚の生態」は、実際的な一人の中年の男が、若くていくらかフーピーな身よりのない娘といい家庭をこしらえてゆくことを眼目に結婚をすることから始まる。
 初めは、奪う
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