てゆかなければならないと考えるからである。
 つい先日の新聞にのった文芸時評で、青野季吉が、文壇文学からの「脱出」が試みられている一つながりの作品として数篇の小説にふれていた。
 現代文学の行きづまりが感じられてから、脱出は「雲の会」となり「ロマネスク」の愛好となって賑やかに示威されている。
 正宗白鳥の「日本脱出」は、一部の批評家によると、日本のニヒリストが、現代ロマネスクのチャンピヨンとしてあらわれた驚異の一つであったようだ。
「脱出」という言葉を日本の文学の上に、ふたたびよむとき、わたしたちの心には、ある思いが湧く。一九三六年ごろ、イタリー映画に「脱出」という作品があった。ムッソリーニが、ヒトラーとの黙契によって北アフリカへ侵略を開始する前ごろの作品で、いまこまかなストーリイは思い出せないけれども、当時イタリーの人民生活を圧していた社会不安、生活の不安から、北アフリカへの軍事行動へ「脱出」するという、好戦の映画であった。イタリー大使館かどこかの好意による特別試写会で、それを見た。そして「脱出」という字は深く心に刻みこまれたのだった。
「日本脱出」は、考えてみれば、白鳥のなぐさみにつけられた題ばかりでなく、日本のきょうの文学に、むしろ、文学の若いジェネレーションに大きいかかわりをもっている。十数年にわたった過去の戦争の年々、人間性をさかむけにする破壊的な戦争強行の現実のなかで、一年一年死の予想を前にして成長しつつあった青年たちは、その中で絶望を支え、人間として生きる精神の拠りどころを何に求めただろう。
 日本の治安維持法の非道さは、治安維持法そのものについて、それがあるということさえ公然と語れば、犯罪行為とした。東條内閣の言論、思想の圧迫は、言論の自由がなく、思想は抑圧されているという現実そのものを抹殺したほど、極端であった。そのような情勢のなかで、生きようとせずにいられない青春が、辛うじて周囲に見出してとりすがったのは、フランス文学であった。フランス文学と云っても、それは、ナチス軍がマジノ線を突破する以前の、ポール・ヴァレリーやジイドなどの文学だった。野間宏が、自分は十二年間ヴァレリーの言葉をもって語って来た、と回想しているのは、誇張ではないであろう。野間宏の人間と文学との過程が人々の関心をよびさましているのは、そのように、国内での脱出、国内亡命を生きて来た現代の一つの精神が、彼の選んだ政治の路線をどのような角度でとおって、日本土着の人民の運命に密着し、帰属してゆくか、という点である。野間宏にとっては、人々によって語られているあたりまえの日本語さえも、新しい生活の発見に属すであろう。「青年の環」「時計の目」「硝子」へのプロセスがそのことを十分暗示している。
 フランスの社交《サロン》小説の大体は、こんにちのフランスには存在しえない、限界に立つものだった。アナトール・フランスの「赤い百合」でさえも、この作家の最良の収穫たらしめなかった。モーパッサンが、「脂肪の塊」と「女の一生」「水の上」の他の何で文学史の上に立っているだろう。自身のロマネスクなるものの源泉を、フランスの社交小説において、こんにち語ることのできる三島由紀夫も、おそらくは戦時下の早熟な少年期を、「抵抗《レジスタンス》」の必然のなかったころのフランス文学に、それが、どれほど歴史の頁からずれつつあるかを知らずに棲んだのだろう。
 ソヴェト同盟の文学が、一九三三年ごろからはロシア語とともに「危険」「要監視」となって、椎名麟三が、ドストイェフスキーにばかり親しまなければならなかった、ということも、あながち、自身の気質によりかかったとばかりは云えまい。椎名麟三も、日本へ帰りはじめている。
 ひとくちに、戦後の文学、戦後の作家とよばれている現代文学の素質に、このように日本独特な精神の国内亡命が、因子となって作用している事実は、見のがされてはならない点である。
 第二次大戦、ファシズムの惨禍を、日本の戦時的日常の現実を、通じて生死しながら、精神では大戦前のレジスタンスを知らないフランス文学に国内亡命をしていた人々の矛盾は、おそらくその人々に自覚されているよりも激しく、こんにち日本の文学に国内亡命をしていた人々の矛盾は、おそらくその人々に自覚されているよりも激しく、こんにち日本の文学の空虚さに作用していると考えられる。
 このことは、「俘虜記」から「武蔵野夫人」への大岡昇平についても考えられることではないだろうか。スタンダリアンであるこの作家の「私の処方箋」(群像十一月号)は、きょうのロマネスクをとなえる日本の作家が、ラディゲだのラファイエット夫人だの、その他の、下じきをもっていて、その上に処方した作品をつくり出していること、或は歴史性ぬきの下じきを使用することをあやしまない
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