的な見方で終っている。葉子の悲劇を解くためには、葉子が倉知をあのように愛し、自分がこれまで待っていた人が現われた、待ちに待っていた生活がやっと来た、と狂喜しながら、何故、妹や、或は古藤に向って、噂が嘘であるかのように、いわゆる潔白な自身というものを認めさせようとするような小細工をする気になるか。その点こそ十分に作者によって解剖されなければならないところであったと思う。遺憾ながら作者の眼光はそこまで徹しなかった。作者は、ただひたすら「昔のままの女であらせようとするものばかり」かたまっている周囲の社会に対して戦っている葉子を理解している。作者としてそれを支持している。しかし、ではどのような新しい道が葉子のためにあったろうか。葉子の時代はその新しかるべき道が女のために未だはっきりとは示されていなかった。キリスト教の文化から背を向ければ、芸術的気質のない葉子には、擡頭しようとする日本の資本主義の社会、その社会のモラル、いわゆる腕が利く、利かぬの目安で人物を評価する俗的見解の道しか見えなかったことは推察される。
作者は一九一七年に再びこの作に手を入れている。そして婦人に対して作者は道徳よりも道
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