の極めて堪へる能はざる所なりしなり。然れども余は他の方面より、余の此事あるが為に老年の両親を苦しましめ、朋友に苦慮を増さしむるを思へば、自己一身の為に他者を損ふの苦痛をなすに堪へず。遂に彼女に送るに絶交の書を以てせり。されども余の素願は、固より彼女の内部に潜める才能を認め、願くば其外部の附属物を除かんとするにありしが故に、自今と雖も若し嘗て余の行為にして彼女をいさゝかなりとも苦しましめしものありとせば、余は甘んじて是を除去するに勉めざる可からず』と。是れ実に美しき覚悟なり。余は彼が何処までも彼の面目を失ふことなく、其恋を終始せんとするを見て今更に云ふ可からざる感慨に入らんとするなり。嗚呼彼女の堅き頑なゝる皮殼を破りて中心に入り、彼女が聖愛によりて救はるゝの時来らん事を見るは如何によき事なる可きぞ。余は主の摂理願くば彼と彼女との上に裕かにして、嫉みによりて破られし総てが愛によりて酬はれん事を望むや切なり。……」
[#ここで字下げ終わり]
 後年、有島武郎が客観的に見れば平凡と云い得る女主人公葉子に対して示した作家的傾倒の根源は既に遠い昔に源をもっていることを理解し得るのである。
 作者が独立教会からも脱退し、キリスト教信者の生活、習俗に対して深い反撥を感じていた時、「或る女」が着想されたことは私どもにとって興味がある。作者は葉子を環境の犠牲と観た。日清戦争の日本に於けるブルジョア文化の一形態であったキリスト教婦人同盟の主宰者として活躍した葉子の母の、権力を愛し、主我的な生き方に対して自然の皮肉な競争者として現われた娘葉子が、少女時代から特殊な環境の中で驚くべき美貌と才気とを発揮させつつ、いつしか並はずれな生き方をするようになった、その女の苦痛と悲しみを理解しようとしている。頭も気も狭い信徒仲間の偏見と、日本の重い家族制度の絆と戦おうとする葉子を、作者は彼女の敗戦の中に同情深く観察しようとしている。人間の生活の足どりを外面的に批判しようとする俗人気質に葉子と共に作者も抵抗している。それらの点で作者の情熱ははっきり感じられるのであるが、果して作者は葉子の苦痛に満ちた激情的転々の根源を突いて、それを描破し得ているということが出来るであろうか。
 私の感想では、作者は葉子と共に、あの面、この面、と転々しつつ、遂に葉子の不幸の原因は掴み出すことが出来なかったように思える。葉子が自分の死の近いことを知った時、自分の二十六年の生涯を顧みて、それは間違いであった、だが、誰の罪だか分らないけれども後悔がある、出来るだけ生きてる中にそれを償わなければならない、という意味の述懐をしている。そして、木村との関係、倉知との関係が何《いず》れも間違っていたということを言っている。最後には凡てを思い捨てた形で、許すことも許されることもない、凡ての人に水の如き一種の愛を感じるような心持に置かれている。
 葉子は自分の生活を間違っていたとだけ云っているが、葉子と共に作者もそこで止まってしまっているように見える。何が葉子の中で間違っていたのだろう。それが今日「或る女」を読む読者の心に湧く当然の疑問であると思う。しん[#「しん」に傍点]では極めて物質的な葉子が、女の幸福、この世に於ける女の喜び、誇りの全部をかけて、ただ男とのいきさつの間にだけその解決を求めていたことに対して、それが葉子のみならず、現実に女の不幸の最大原因であることを、作者は明確に観察して描き出していない。経済的なよりどころとして葉子の生活においては次から次へ男が必要であったこと。葉子自身がただの一度も自主的に何とか経済的な面を打開しようと思っても見なかったこと。それは、日清戦争前後のロマンティックな文学的雰囲気に触れ、非常に才気煥発で敏感な葉子にあっても、やはり環境的にもたらされてそこから脱ける意力ははぐくまれていなかった不幸の最大の原因であったということを、葉子が理解しないと同時に、作者もはっきり作品の中にこの点を描き出していない。
「或る女」では、男に対する女の官能の面も鋭く忌憚なく描こうと試みられている。心が愛すばかりでなく女も男のように肉体で男に引かれるという点も作者は語ろうとしている。作者としては一歩踏み出した作家的境地においてこの決心をしているのである。だが残念なことに、経済的な理由、肉体的な理由をひっくるめての複雑多岐な男との交渉をもその一部としてもちながら、女の全生活は立体的に成り立つものであるという理解を、作者は葉子の生き方とその悲劇を語る広い背景として頭に置いていないように見える。それ故「或る女」全篇の読後感は、作者が非常に熱心に目を放さず葉子の矛盾の各場面に駈けつけてそれを描いているが、葉子という一箇の女と当時の社会的な事情との相互関係から生じる深刻な摩擦については、比較的常識
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング