自分の死の近いことを知った時、自分の二十六年の生涯を顧みて、それは間違いであった、だが、誰の罪だか分らないけれども後悔がある、出来るだけ生きてる中にそれを償わなければならない、という意味の述懐をしている。そして、木村との関係、倉知との関係が何《いず》れも間違っていたということを言っている。最後には凡てを思い捨てた形で、許すことも許されることもない、凡ての人に水の如き一種の愛を感じるような心持に置かれている。
 葉子は自分の生活を間違っていたとだけ云っているが、葉子と共に作者もそこで止まってしまっているように見える。何が葉子の中で間違っていたのだろう。それが今日「或る女」を読む読者の心に湧く当然の疑問であると思う。しん[#「しん」に傍点]では極めて物質的な葉子が、女の幸福、この世に於ける女の喜び、誇りの全部をかけて、ただ男とのいきさつの間にだけその解決を求めていたことに対して、それが葉子のみならず、現実に女の不幸の最大原因であることを、作者は明確に観察して描き出していない。経済的なよりどころとして葉子の生活においては次から次へ男が必要であったこと。葉子自身がただの一度も自主的に何とか経済的な面を打開しようと思っても見なかったこと。それは、日清戦争前後のロマンティックな文学的雰囲気に触れ、非常に才気煥発で敏感な葉子にあっても、やはり環境的にもたらされてそこから脱ける意力ははぐくまれていなかった不幸の最大の原因であったということを、葉子が理解しないと同時に、作者もはっきり作品の中にこの点を描き出していない。
「或る女」では、男に対する女の官能の面も鋭く忌憚なく描こうと試みられている。心が愛すばかりでなく女も男のように肉体で男に引かれるという点も作者は語ろうとしている。作者としては一歩踏み出した作家的境地においてこの決心をしているのである。だが残念なことに、経済的な理由、肉体的な理由をひっくるめての複雑多岐な男との交渉をもその一部としてもちながら、女の全生活は立体的に成り立つものであるという理解を、作者は葉子の生き方とその悲劇を語る広い背景として頭に置いていないように見える。それ故「或る女」全篇の読後感は、作者が非常に熱心に目を放さず葉子の矛盾の各場面に駈けつけてそれを描いているが、葉子という一箇の女と当時の社会的な事情との相互関係から生じる深刻な摩擦については、比較的常識
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