「愛怨峡」における映画的表現の問題
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九三七年七月〕
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「愛怨峡」では、物語の筋のありふれた運びかたについては云わず、そのありきたりの筋を、溝口健二がどんな風に肉づけし、描いて行ったかを観るべきなのだろう。
 私は面白くこの映画を見た。溝口という監督の熱心さ、心くばり、感覚の方向というものがこの作品には充実して盛られている。信州地方の風景的生活的特色、東京の裏町の生活気分を、対比してそれぞれを特徴において描こうとしているところ、又、主人公おふみの生きる姿の推移をその雰囲気で掴み、そこから描き出して行こうとしているところ、なかなか努力である。カメラのつかいかたを、実着にリアリスティックに一定していて、雰囲気の描写でもカメラの飛躍で捕えようとせず、描くべきものをつくってカメラをそれに向わせている態度である。こういう点も、私の素人目に安心が出来るし、将来大きい作品をつくって行く可能性をもった資質の監督であることを感じさせた。
 この作品が、日本の今日の映画
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