の率直な感想は、どうだろうか。抑圧されていた日本文化の急進性はこんなにも豊富であったのか、と一夜に開いた花園の絢爛さに瞠目するよりは、むしろ、反対の印象があるように思える。例えば、余り体力の強壮でない中学の中級生たちが、急に広場に出されて、一定の高さにあげられた民主主義という鉄棒に向って、出来るだけ早くとびついて置かないとまずい、という工合になって、盛にピョンピョンやりはじめたような感じがなくはない。
 ジャーナリズムの上に、この事情をあてはめると、今日の編輯者は、自身の理解や生活態度がどの程度のものかということは抜きにして、ともかく「思想性」のはっきりしたものを捉えなくてはものにならない、という現象になっているのである。
 おのずからそこに客観的な効果は在り得るのだから、それをとやかく云うには及ばない。一行でも多く、一冊でも多く、人間の独立と、よろこび多い合理性にとんだ社会生活の建設に役立つ印刷物が出なくてはならない。人民の経済生活は極めて危機に瀕しているから、もう一二ヵ月もすれば出版物に対する購買力も低減するだろうからという見越しで、すべての出版業者が、せき立ち焦っているのも、結構と思う。わたし達は、自身が餓えつつあるとき、せめては何が故に、自分達はこうも飢じいのか、ということを知り学び、そこから脱出する方法を発見しようとする旺盛な人間的意欲をもつのであるから。その足しになるものなら、一冊の本の買えるうちにこそ買われなければならない。
 こういう応急的な思想性の需要と供給との現象が、現在の文化面を忙しく右往左往しているのであるが、日本ではおそらく明治開化の時代にも、日露戦争後の社会問題擡頭期にも、第一次欧州大戦後の社会科学への関心の高まった時代にも、今日見られると同じような現象が見られたのではなかったろうか。そして、真面目に社会文化の明日への進展を考えている多数の人々は、過去に於ても今日に於ても見られるこの日本型文化躍進の足どりに、この際極めて重要な実質上の進化がなければならないことを直感しているのではなかろうかと思う。言葉をかえて云えば、やむを得ない応急的なあわただしさの反面に、日本の文化はもっともっと落着いて、蘊蓄《うんちく》を深く、根底から確乎とした自身の発展的推進力を高めて行かなければ、真に世界文化の水準に到達することは困難である、という自戒を感じている
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