、その男が何の用でやって来たのか想像が出来ませんでした。けれど無論私は、おかみさんに中へ通すように云いました。その男は這入って来ました。――中肉中脊で、髪の毛の濃い、目の黒い、そして黒い髭を生やして、鼻のそばに何か光る筋を持った男でした。彼は時間の尊さを知ってる男であるかのように、はきはきした男で、はっきりどんどん思うことをしゃべるのでした。
「ホール・ピイクロフトさん、――でいらっしゃいましたね」
 と彼は云いました。
「ええ、そうです」
 私はそう答えて、彼のほうに椅子を押しやりました。
「最近までコクソン・ウッドハウスの店にいらっしゃいましたか?」
「ええ、おりました」
「で、ただいまは、モウソンの所に?」
「そうです」
「ああそうですか」
 と彼は申しました。
「実はあなたの会計的才能につきまして、実に素晴らしいお噂をうかがいましたもので、あなたはコクソンの支配人だったパーカーを御存じですか?――彼が別にあなたのことを云ったと云うわけじゃありませんけど……」
 無論私はこの話をきいて喜びました。私は事務所では実際いつも如才なくキビキビと働いてはいましたけれど、しかし世間でこんな風に私の噂をしていようとは夢にも思っていませんでした。
「あなたは大変記憶がおよろしいんですって?」
 と彼が云いました。
「少しばかり」
 と、私は慎み深く答えました。
「職にお離れになってた間も、株のことに関心をお持ちでしたか?」
 彼はききました。
「ええ、毎朝、株式取引の高低表は見ております」
「そうだ、それが本当の適不適を示してくれる」
 と、彼は叫びました。
「これが一番いい方法だ。――あなたを試験するようなことをしても気にしないで、私にやらせて下さい、ね。――アイルシャイアーの株はどのくらいですか?」
「百五|磅《ポンド》から百五|磅《ポンド》四分ノ一まで」
「では、ニュウジーランド国庫公債は?」
「百四|磅《ポンド》」
「ブリティッシ・ブローラン・ヒルは?」
「七|磅《ポンド》から七|磅《ポンド》六まで」
「素適だ!」
 と、彼は両手を振り上げて叫びました。
「私がきいたのと、すっかりみんな合ってる。ねえ、ねえ、あなた。――あなたはモーソンの店の事務員になるなんて勿体なさすぎますよ」
 この叫びはむしろ私を驚かしたんです。あなたもそうお思いになるでしょう。
「いや、どうも」
 と、私は申しました。
「世間の人はあなたが考えるようには、私を買い被ってくれませんよ。ピナーさん。――私はこの地位を得るのにずいぶん苦労したんですから、私はこの職にありつけたのを喜んでおりますよ」
「馬鹿な、世間の人、こんなものからは超越すべきですね。あなたはあなたの真価に応《ふさわ》しい位置にはいませんよ。――そこで私はあなたに御相談があるんですが、私と一しょに仕事をしていただきたいと思って。――そりア私があなたについていただきたいと思ってる地位だって、あなたの才能に比しては不充分なものなんですけれど、でもモウソンの所の地位と較べたら、暗《やみ》と光ほどの相違です。まあ、お話しましょう。――あなたはいつ[#「いつ」は底本では「いつも」]モウソンの所へいらっしゃいますか[#「いらっしゃいますか」は底本では「いらっやいますか」]?」
「月曜日です」
「ハッハッ!――あなたはあそこへは断じていらっしゃいませんよ。賭をしてもいいと思いますね」
「モウソンの所へいかないって?」
「そうですよ。――その日までに、あなたはフランス中部鉄器株式会社の営業支配人におなりになるでしょう。その会社はフランスの町や村に百三十四の支店と、その他に、ブラッセルに一つとサン・レモに一つ支店を持っています」
 この話は私を呼吸《いき》づまらせるほど驚かせました。
「私はそんな会社の話はききませんよ」
 私は申しました。
「そりア、話をきこうわけはありません。それは非常に秘密にされたんです。なぜなら資本家がみんな匿名だったからですが、しかし公にしたほうがいいんです。――私の兄弟のハリー・ピナーは発企人《ほっきにん》なんですが、選挙の結果、専務取締として評議員に加わっています。彼は私がこちらへやって来ることを知ってたものですから、私に申しました。不遇な才能ある人間を抜擢して来てくれとね。――元気のいい前途有望な若い人をね。――あなたのことはパーカーが話してくれたんです。そして今夜こちらへつれて来てくれた人です。私たちは初任給として、あなたに五百|磅《ポンド》さし上げることが出来るにすぎませんが――」
「五百|磅《ポンド》、一年に!」
 と私は叫びました。
「それは最初だけの話です。しかしあなたの周旋でされた取引に対してはすべて、一パーセントの過勤割戻しをとることが出来るんです。そして正直の所、これがあなたの俸給より多くなることは受合いです」
「けれど私は鉄器類のことについては何も知りませんよ」
「しようがないな、君は。――形は分かるでしょう」
 私の頭の中は騒然として、私は静かに椅子に腰かけていられなくなりました。けれど、ふとかすかな疑いが、私におこりました。
「ざっくばらんに申上げますが……」
 と私は云いました。
「モウソンは私に二百|磅《ポンド》くれるだけです。けれどモウソンのほうは確かなんです。が、真実の所、私はあなたの会社についてはほとんど知らないのですからね、――」
「ああ、あなたは実にきびきびしている!」
 と、彼は喜びで夢中になっているような調子で叫びました。
「あなたは私たちがほしいと思ってた通りの方です。それ以上おっしゃらなくても、ちゃんと分かっています。さあ、ここに百|磅《ポンド》の小切手があります。――もしあなたが私達の仕事をしようとお思いになったら、これを給料の前渡し分としてお納めになって下さい」
「分かりました。大変結構なお話です」
 私は申しました。
「で、いつから私は仕事にかかったらいいんでしょう?」
「すぐに明日、バーミングハムへいってもらいたいんです」
 と、彼は云いました。
「ポケットの中へ、私は手紙を持って来てますから、それを私の兄弟の所へ持って行って下さい。コーポレーション街一二六番地ですから、分かります。そこに会社の仮事務所があるんです。――もちろん、あなたとのお約束は彼が確実に取きめてくれるでしょうが、しかし私たちの間にはちゃんと話がしてあるんですから……」
「本当に、私は、あなたにどう云ってお礼を申上げたらいいか分かりません。ピナーさん」
 私は申しました。
「そんなお礼なんかなさることはありませんよ。君。あなたはただあなたが当然受くべきものを受けたにすぎないんですもの。――だが、ちょっとしといていただかなければならない、――単なる形式なんですが、――つまらないことが一つ二つあるんです。そこへ紙を一枚お出しになって下さいませんか。そしてすみませんが、「最低俸給五百|磅《ポンド》にて、フランス中部鉄器株式会社営業支配人として働くことに同意致し候」と、お書きになって下さい」
 私は彼の云う通りにしました。そして彼はその紙をポケットの中へしまい込みました。
「それからもう一つ精《くわ》しくおききしたいのは、あなたはモウソンのほうはどうなさるおつもりですか?」
 彼は云いました。――私はモウソンのことについては、余り喜んだので、すっかり忘れてしまっていたんです。
「手紙を書いて、辞職しましょう」
 私は答えました。
「私がお願いしないことはなさらないように。――私はあなたをモウソンの店の支配人として知ったわけです。そこで私はモウソンにあなたのことをきいてみました。すると彼は大変機嫌を悪くして、――あなたを私が誘惑してあそこの店からつれ出すか、何かそんなことをするのだと云って私を非難しました。そんなわけで私はとうとう我慢がしきれなくなってしまったんです。で、「もしあなたが有為な人がほしいなら、もっとたくさん報酬をお払いにならなくてはなりませんよ」と私は云っちまったんです。すると彼は「あの男は君の所のたくさんな収入より、むしろ僕の所の少ない収入のほうを好むよ」と云うんです。そこで私は「あらかじめお断りしておきますが、あの男が私の店へ来るようになっても、あなたはお咎めになさらないでしょうな」と云うと「僕はあの男をどぶの中から引き抜いてやったんだから、そんなに容易《たやす》くは僕の店から出て行きあしないよ」と、こう云う彼の云い草なんですよ」
「失敬な奴だな」
 私は叫びました。
「もう生涯あいつん所へは行くものか。どんな点から云ったって、何故《なにゆえ》私は彼に気兼ねをしなくちゃならないでしょう。――私は何も云ってやりますまい。あなたがそうすることに賛成して下さるなら」
「賛成! じゃ、お約束しましたよ」
 彼は椅子から立ち上りながら云いました。
「本当に、私は私の兄弟のためにあなたのような有為な人を得られて喜んでいます。――これは俸給の前払いの百|磅《ポンド》です。それからこれは手紙です。向うの所番地をお書とめになって下さい。コーポレーション街一二六番地。それから明日の一時までにいらっして下さる[#「下さる」は底本では「下る」]ことをお忘れにならないように――。じゃおいとまします。万事うまくおやりになるように」
 これがその時、私たちの間に起きたことの、ほとんどそのままなんです。私はごく最近のことなんではっきり覚えているんです。――ワトソンさん、私がその素敵な幸運に出会って、どんなに喜んだかは、想像していただけるでしょう。私はその夜嬉しく夜中すぎまで起きてました。そしてその翌日、私は約束の時間に充分間に合うような汽車に乗ってバーミングハムへ出かけて行きました。私はひとまず新開通りにあるホテルに荷物を届けて、それから指定通りの所番地へ出かけました。
 私はそこへ約束の時間より十五分前に着いたんですが、前の晩にきいたことに何の間違いもないと思いました。一二六番地と云うのは大きな二軒の商店の間にある出入口で、曲りくねって石の階段がありましたが、そこから何階もある各階の、会社や商人の事務所へ行けるらしいのでした。――ところが、居住者の名前はそこの壁の下のほうに書いてありましたが、フランス中部鉄器株式会社なんて云うそんな名前はないのです。――私はしばらくの間、何か不安に駈られながらそこに立っておりました。これは何か念入りないたずらなんじゃなかろうかなどと考えながら。――するとそこへ一人の男がやって来て私に声をかけました。その男は前の晩私が会った奴とそっくりでして、顔形も声も同じなんです。ただその男はきれいに頭髪を刈って髪の毛を光らせていました。
「あなたはホール・ピイクロフトさんですか?」
 その男は訊ねました。
「ええ、そうです」
 私は答えました。
「ああ、そうですか。私はあなたをお待ちしてたんです。けれどあなたのほうがお約束の時間より少し早くいらっしったんです。――けさは、私の兄弟から手紙を貰らいましてね、兄弟はその手紙の中で大変あなたのことをほめておりましたよ」
「あなたがいらしった時、ちょうど、事務所をさがしてたんです」
「まだ名前を出しとかないもので。先週からここへ仮事務所をおくことにきめたばかりだものですからね。――一しょにおいでになって下さい。お話致しましょう」
 私は彼について、ずいぶん急な階段の頂上までのぼりました。と、その屋根裏に、空っぽの誰もいないほこりだらけな、敷物もしいてなければカーテンもかけてない小さいな[#「小さいな」はママ]二つの部屋があって、その中へ私は案内されました。――正直な所、私は大きな事務所を予想して来たんです。それまでと同じような、幾つものチャカチャカしたテエブルや大勢の事務員がズラリと並んでるようなそう云う大きな事務所を。――包まず申上げますが、私はその二つの安い椅子と一つの小さなテエブルとをしげしげと眺めました。その他に元帳が一冊と屑籠が一つと、それだけが全部の家具なんですからねえ。
「がっかりなすっ
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