たはモウソンのほうはどうなさるおつもりですか?」
 彼は云いました。――私はモウソンのことについては、余り喜んだので、すっかり忘れてしまっていたんです。
「手紙を書いて、辞職しましょう」
 私は答えました。
「私がお願いしないことはなさらないように。――私はあなたをモウソンの店の支配人として知ったわけです。そこで私はモウソンにあなたのことをきいてみました。すると彼は大変機嫌を悪くして、――あなたを私が誘惑してあそこの店からつれ出すか、何かそんなことをするのだと云って私を非難しました。そんなわけで私はとうとう我慢がしきれなくなってしまったんです。で、「もしあなたが有為な人がほしいなら、もっとたくさん報酬をお払いにならなくてはなりませんよ」と私は云っちまったんです。すると彼は「あの男は君の所のたくさんな収入より、むしろ僕の所の少ない収入のほうを好むよ」と云うんです。そこで私は「あらかじめお断りしておきますが、あの男が私の店へ来るようになっても、あなたはお咎めになさらないでしょうな」と云うと「僕はあの男をどぶの中から引き抜いてやったんだから、そんなに容易《たやす》くは僕の店から出て行きあしないよ」と、こう云う彼の云い草なんですよ」
「失敬な奴だな」
 私は叫びました。
「もう生涯あいつん所へは行くものか。どんな点から云ったって、何故《なにゆえ》私は彼に気兼ねをしなくちゃならないでしょう。――私は何も云ってやりますまい。あなたがそうすることに賛成して下さるなら」
「賛成! じゃ、お約束しましたよ」
 彼は椅子から立ち上りながら云いました。
「本当に、私は私の兄弟のためにあなたのような有為な人を得られて喜んでいます。――これは俸給の前払いの百|磅《ポンド》です。それからこれは手紙です。向うの所番地をお書とめになって下さい。コーポレーション街一二六番地。それから明日の一時までにいらっして下さる[#「下さる」は底本では「下る」]ことをお忘れにならないように――。じゃおいとまします。万事うまくおやりになるように」
 これがその時、私たちの間に起きたことの、ほとんどそのままなんです。私はごく最近のことなんではっきり覚えているんです。――ワトソンさん、私がその素敵な幸運に出会って、どんなに喜んだかは、想像していただけるでしょう。私はその夜嬉しく夜中すぎまで起きてました。そしてその翌日、私は約束の時間に充分間に合うような汽車に乗ってバーミングハムへ出かけて行きました。私はひとまず新開通りにあるホテルに荷物を届けて、それから指定通りの所番地へ出かけました。
 私はそこへ約束の時間より十五分前に着いたんですが、前の晩にきいたことに何の間違いもないと思いました。一二六番地と云うのは大きな二軒の商店の間にある出入口で、曲りくねって石の階段がありましたが、そこから何階もある各階の、会社や商人の事務所へ行けるらしいのでした。――ところが、居住者の名前はそこの壁の下のほうに書いてありましたが、フランス中部鉄器株式会社なんて云うそんな名前はないのです。――私はしばらくの間、何か不安に駈られながらそこに立っておりました。これは何か念入りないたずらなんじゃなかろうかなどと考えながら。――するとそこへ一人の男がやって来て私に声をかけました。その男は前の晩私が会った奴とそっくりでして、顔形も声も同じなんです。ただその男はきれいに頭髪を刈って髪の毛を光らせていました。
「あなたはホール・ピイクロフトさんですか?」
 その男は訊ねました。
「ええ、そうです」
 私は答えました。
「ああ、そうですか。私はあなたをお待ちしてたんです。けれどあなたのほうがお約束の時間より少し早くいらっしったんです。――けさは、私の兄弟から手紙を貰らいましてね、兄弟はその手紙の中で大変あなたのことをほめておりましたよ」
「あなたがいらしった時、ちょうど、事務所をさがしてたんです」
「まだ名前を出しとかないもので。先週からここへ仮事務所をおくことにきめたばかりだものですからね。――一しょにおいでになって下さい。お話致しましょう」
 私は彼について、ずいぶん急な階段の頂上までのぼりました。と、その屋根裏に、空っぽの誰もいないほこりだらけな、敷物もしいてなければカーテンもかけてない小さいな[#「小さいな」はママ]二つの部屋があって、その中へ私は案内されました。――正直な所、私は大きな事務所を予想して来たんです。それまでと同じような、幾つものチャカチャカしたテエブルや大勢の事務員がズラリと並んでるようなそう云う大きな事務所を。――包まず申上げますが、私はその二つの安い椅子と一つの小さなテエブルとをしげしげと眺めました。その他に元帳が一冊と屑籠が一つと、それだけが全部の家具なんですからねえ。
「がっかりなすっ
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三上 於菟吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング