女はこっそり自分の部屋に逃げ込もうとして、自分自身の亭主に声をかけられると、アッと驚いて、おずおずと怖がっているのを見ては私はだまってはいられませんでした。――がやがて彼女は
「まあ、あなた起きてらしったの? ジャック」
と、苦しげに笑いを浮べながら云いました。
「おやすみなんだろうと思ったのよ」
「どこへいって来たの?」
と、私は少しけわしい声で訊ねてみました。
「ねえ、あなたびっくりなすったんでしょう」
と、彼女は申しました。彼女の手の指はぶるぶるふるえて、マントをとることも出来ないほどでした。
「私、こんなことを、今までにただの一度もした覚えはないわ。私ね、咽喉《のど》がつまりそうな気がしたのよ。だから、しばらく外の空気を吸って来たの。――私、外へ出て行かなければ、死んじまったのかもしれないと思うわ。私、入口の所にしばらく立っていたの。でも、もう、すっかり大丈夫なの」
彼女はそう云ってる間中《あいだじゅう》、ただの一度も私をまともに見ようともせず、また彼女の声の調子は、不断とはまるきり違っておりました。私には彼女が嘘をついてると云うことがはっきり分りました。私は何も返事をしないで、壁のほうを向いたまま、どうしてやろうかと考えました。私の心は恐ろしい疑念や猜疑心で一ぱいでした。――私の妻が私に隠していることはどんな事なんだろう。そして一体さっきはどこへいって来たんだろう。――私はそれらを確めるまでは、到底平和な気持ちになることは出来ないと思いました。けれどそのまま、二度と彼女に質問しようとはしませんでした。そしてその夜《よ》は一晩中、私はそれらのことを確める方法を考えて、まんじりともせずに転輾反則《てんてんはんそく》しました。が、どの方法を考えてみても、結局、いそいでなじったりなどしないほうがよさそうでした。
そうこうしているうちに夜《よ》があけましたが、その日、私は町へ行く手筈《てはず》になっていたのです。しかし私の心はすっかり滅茶滅茶になっていて、到底商売上の取引などは出来そうにもありませんでした。また私の妻も私と同じようにすっかり平静さをなくしているらしく見えました。私には、彼女が窺《うかが》うようにチラッと私を見た目つきでそれが分ったのです。そして彼女はまた、彼女が前の晩した云いわけを私がちっとも信じていないと云うことを知っていて、どうにかしようと考えていることも、私にはよく分りました。――私たちは朝飯《あさめし》の間一言も口をききませんでした。そして朝飯がすむとすぐ私は散歩に出かけました。私は朝の澄んだ空気の中で、昨夜からの事件を考え直してみようと思ったのです。
私はクリスタル・パレス(ロンドンの南部にある遊覧所)の辺《へん》までも歩いていって、そこで一時間ばかり腰かけておりました。そして一時頃にノーブリーに帰って来ました。――と、偶然に私は例の離れ家の前に出ました。私はしばらく立ち止って、前日私をじっと見詰めていた例の気味悪い顔を、もう一度見つけることが出来るかもしれないと思って、あの窓を見上げてみました。するとどうです、ホームズさん、ふいにその家《うち》のドアが開かれて、中から私の妻が出て来たではありませんか。まあ、その時の私の驚き方を想像してみて下さい。
私は驚きの余りものも云えませんでした。しかし私たちの視線が出会った時、彼女の顔に現れた驚きの表情は、私のより更に激しいものでした。彼女は瞬間にちょっとまた家《うち》の中に逃げ込もうとするような様子を見せましたが、もう到底隠れることが出来ないのを知ると、私のほうへ近寄って来ました。彼女は蒼白な顔をし、恐怖に満ちた目をしていながら、唇の上には微笑《びしょう》を浮べておりました。
「まあ、ジャック、――私ね、今度いらしったお隣さんへ、何かお力になって上げられるようなことはないかと思って、伺《うかが》った所だったのよ。――まあ、なんだってそんなに私をご覧になるの、ジャック。何かおこってるの?」
と、彼女は申しました。
「そうか、昨夜、お前が来たのはここだろう?」
私は云いました。
「なんですって?」
彼女は声を高くしました。
「お前は来た。それは確かだ。――一体、お前がそうやって一時間ばかり会いにやって来なければならない人間って、何者なんだ?」
「私、今ままでにここへ来たことなんかありませんわ」
「どうしてお前は私に嘘をつくんだ?」
と、私は怒鳴りました。
「お前のしゃべる声はまるで変ってるじゃないか。お前は今までに、私に何かものをかくしていたことがあるか?――よし、私はこの家《うち》の中へ這入ってって、徹底的に調べてやる!」
「いけません、ジャック、お願いですわ」
彼女は夢中になって叫びました。そして私が入口に近寄って行くと、私の袖口にしがみついて、猛烈な力で引き戻しました。
「ねえジャック、お願いだからそんなことしないでちょうだい」
彼女は叫ぶように云うのでした。
「その代り、いつかはきっと、何もかもみんなお話しするわ。私、誓ってよ。けれども何でもないのよ。――でも、今、この家《うち》の中へ這入って行くと不幸が起きて来るの」
私は彼女を振り放そうとしましたが、彼女はまるで気違いのように嘆願しながら私に噛《かじ》りつくのでした。
「ねえジャック、私を信じて!」
と、彼女は叫びました。
「今度だけでいいから、私を信じて。――あとで悲しまなければならないような原因を作っちゃいけないわ。――私、あなたのためでなければ、あなたに何もかくしたりなんかしやしないの。ね、それは分かって下さるでしょう。私たちの命が、これにかけられてあるのよ。けれどあなたが私とこのまま家《うち》へ帰って下されば、すべてはうまく行くの。そうでなくて、もしあなたが無理にこの家《いえ》の中へ這入っていらっしゃれば、もうそれまでなの」
彼女の熱心さとそして憂わしげな様子とは、私を思いとまらせました。そして私は入口の前に心をきめ兼ねて立っていたのです。
「条件づきでお前の云うことを信じよう。たった一つの条件づきで……」
やがて私は云いました。
「それはこの不快な事件を、きょうを最後にすると云う条件だ。――お前はお前の秘密をかくしていたいならそれはお前の自由だ。けれどただこれだけは約束しなくちゃいけない。もう二度と夜中によそ[#「よそ」に傍点]へ出て行かないと云うことと、私に知らせないでは何もしないと云うことだけは。――そして、もうこれからこんなことはしないと云うなら、出来ちまったことは忘れてやってもいい」
「たしかに私を信じて下さるわね」
と、彼女はそう云って、ホッと太い溜息をつきました。
「あなたのお望み通りにするわ。ね、さあ、行きましょう。家《うち》へ帰りましょう」
彼女はなおも、その離れ家から私を連れ去ろうとして私の袖を引っぱるのでした。やがて少し行ってから私が振り返ってみますと、例の黄色な鉛色の顔が、二階の窓からじっと私たちを見詰めておりました。――一体、あの気味の悪い顔と私の妻との間に、何かのつながりがあるなんて云うことがあるだろうか。否《いな》、きのう私が会った、あの呪わしい粗野な女が、どうして私の妻とつながりをつけたのだろう?――不思議な謎です。そしてこの謎を解かない限り、私の心はどうしても平静に戻ることは出来ないと云うことが分かりました。
それから二日の間、私は家《うち》におりました。そして私の妻は、私たちの約束に絶対的に服従して、私の知ってる範囲では、家《うち》から外へは決して出ようとしませんでした。すると二日目のこと、私は彼女のした約束が厳格に守られていないで、彼女は彼女の夫と彼女の義務を裏切っていると云う証拠を握ったのです。
その日私は町へ出かけていったのでしたが、いつも私が乗る習慣になっていた三時三十六分の汽車の代りに、二時四十分の汽車で帰って来たのです。そして家《うち》に這入ると、女中がびっくりした顔をして、大広間に飛び出して来ました。
「奥さんはどこにいる?」
私は訊ねました。
「散歩にお出かけになったようでございますわ」
と、女中は答えました。
私の心はみるみる猜疑心で一ぱいになってしまいました。私は彼女が家《うち》にいないと云うことを確かめるために、二階にかけ上がりました。私は二階にかけ上《あが》りながら、偶然に窓から表《おもて》をチラッと見ました。と、私は、今私が口をきいて来たばかりの女中が、広場を横切って例の離れ家のほうへ走って行くのを見つけたのです。こうなれば、無論私は、すべてのことを想像することが出来ます。――私の妻は例の離れ家にいっているのです。そしてもし私が帰って来たら迎えに来るように云いつけてあったのです。私は怒りにふるえながら、二階から馳《か》け降りると広場を横切って走って行きました。この事件をきれいに解決してやろうと決心して。――私は私の妻と女中が並んで、例の細い道をいそいで戻って来るのに出会いました。しかし私は立ち止ろうともしませんでした。――あの離れ家の中に、私の生活に暗い影を投げている、何かの秘密が横たわっているんだ。たといそれがどんなものであろうと、いつまでも秘密にしておいてはならない、――と、私は自身に誓いました。そしてその離れ家につくと、私はノックもせずに、いきなりドアのハンドルを廻して中に飛び込んだのです。
一階は全く静かでひっそりしていました。お勝手のお鍋の中で何かがぐずぐず煮えてい、黒い猫が籠の中にうずくまっているだけで、私が前に会った女の影はどこにも見えませんでした。私は別の部屋に馳《か》け込んでみました。しかしそこにも同じように誰もいませんでした。そこで私は二階に上っていってみましたが、しかし誰もいない空っぽの部屋が二つあるのを見出《みいだ》したばかり。家中《うちじゅう》に人一人いないのです。――飾ってある家具類や絵は至って平凡な凡俗なものばかりでしたが、私が、例の奇妙な顔を見た窓のついている寝室の中だけは別でした。そこは気持ちよく優雅に飾ってありました。が、そこの暖炉棚の上に、私の妻の等身大の肖像画が飾ってあるのを見つけた時、私の疑念は一時《いちじ》にムラムラと燃え上がりました。その肖像画と云うのは、たった三ヶ月前に私が望んで描かせたばかりのものだったのです。
私は家《うち》の中がたしかに空っぽであると云うことを確かめるために、なおまだ長い間そこに立っておりました。が、やがて私は、何か今までに経験したことのない圧迫を感じて来て、私はその家《いえ》を出ました。そして私は家《うち》に帰りますと、妻は大広間に出て来ました。けれど私は彼女に話しかけるには、余りにイライラし腹が立っていましたので、ものも云わずにさっさと自分の部屋に這入ってしまいました。けれども彼女は、私が部屋のドアをしめないうちに、私について中に這入って来ました。
「ごめんなさい、約束を破って。ジャック」
彼女は云いました。
「けれどもしあなたが、すべての事情を知って下すったら、きっと私を許して下さると思うわ」
「じア、すっかりお話し」
と、私は云いました。
「話せないのジャック、話すことは出来ないの」
彼女は叫びました。
「あの離れ家の中に住んでいるのは何者だか、そしてまた、お前があの肖像をやったのは何者だか、それをお前が話すまでは、私たちの間は夫婦でもなんでもないんだ」
私はそう云うと、彼女から逃げて家《うち》を出てしまいました。――ホームズさん。それが昨日の事なんです。それ以来私は彼女に会いませんし、従ってこの奇妙な事件についても何も知りません。これは私達夫婦の間にかもされた最初の暗い影なのです。そして私はさんざん頭を悩ましたけれど、どうしたら一番よいのか分からないのです。――するとけさのことでした、ふと私は、あなたなら私の相談に乗って下さると思いついて、いそいでやって来たんです。そして何もかも腹臓《ふくぞう》なく申上げてあなたのお手にすがったわけなんです。――まだもしどこかはっきりしない点が
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