の父親の心を強く打ったことは、彼の父親の行動の一つ一つに現れているのを見ても確かだった。そうして遂に、私は彼の父親の不安の原因になっていると云うことが分かったので、もうそろそろそこから引き上げようと思った。ところが、ちょうど、私が帰る前日のこと、後になって非常に重大事件を引き起こした所の、ある出来ごとが持ち上ったんだ。
僕たち三人は、庭の芝生の上の椅子に腰かけて、沈み行く太陽を眺めながら、広々としたそこからの眺望を楽しんでいた。と、その時女中が来て、トレヴォ氏に会いたいと云う人が玄関に来ていると知らせた。
「何と云う名前じゃ?」
その家の主人はたずねた。
「何ともおっしゃらないのでございます」
「なんだって云わないのじゃ?」
「あなたが御存じだ[#「だ」は底本では「た」]と云っております。そしてただ、ちょっとお話したいんだって」
「こっちへ通してくれ」
しばらくすると、おどおどした様子の、小さな干からびたような男が、足を引きずって歩きながらそこに現れた。その男は袖に一ぱいコールタールの汚点のついた、赤と黒との市松模様になった胸のあいたジャケツを着て、水兵ズボンをつけ、ぼろぼろに破れた重そうな靴をはいていた。彼の顔は痩せて日にやけてずるそうで、ニヤニヤ始終笑って、不揃な黄色い歯を見せていた。そして皺だらけの腕は、船乗り独特のやり方で、半分だけ組んでいた。その男が芝生を横切って僕たちのほうへ近寄って来た時、僕はトレヴォ氏が咽喉《のど》の中で、あッと云うようなシャックリをする時のような声を出したのを耳にした。そして彼は椅子から立ち上ると、家の中に走り込んだ。が、すぐ引き返して来た彼が、僕の側《そば》を通る時、僕は強いブランデーの臭いをかいだのだ。
「おい、君」
と、彼は云った。
「どうしろと云うんだい?」
船乗りは立ち止って、じっと目を据え、同じようにだらしなく口をひらいてニヤニヤ笑いながら、彼を見詰めた。
「俺を忘れたかね?」
彼は云った。
「何を云うんだ、おい。ハドソンじゃないか」
トレヴォ氏は驚いたような口調で云った。
「ハドソンだよ。檀那」
船乗りは云った。
「三十年、もっとにもなるな、お前さんに別れてから。お前はこうやって今じゃお前の家にいるが、おいらまだ塩漬樽の中から、塩臭え肉をつまみ出して喰ってるのよ」
「チェッ。君は、僕が昔のことを忘れとりアせんと云うことが分かったろう」
トレヴォ氏は船乗りのほうへ歩いて行きながら叫んだ。そして何か低い声でささやいた。
「台所へ行きたまえ」
それから大きな声で続けた。
「そして充分食べたり飲んだりしたまえ。何か君の仕事をきっとさがしてやるよ」
「有難えなア、檀那」
船乗りは頭をかきながら云った。
「ひょいと考えなしに荷物船に乗っかって、三年余り突っ走っちゃったもんでね、おいらぐっすり休みてえんでさあ。で、お前さんとこか、ベドウスの所か、どっちかへ行こうと思ってね」
「あ、君はベドウスがどこにいるか知ってるのか?」
トレヴォ氏は叫んだ。
「知ってますとも、お前さん、おいら古い友達のいる所はみんな知ってまさあ」
その男は皮肉な笑いを浮べながら答えた。そして女中に連れられて台所のほうへ足をひきずりながら歩いて行った。トレヴォ氏は僕たちに、鉱山へ行く途中、その男と一しょに船乗りをしていたのだと、曖昧なことを云ってから、僕たちを芝生に残したまま、家の中に這入っていってしまった。それからちょうど一時間ばかり後、僕たちが家の中に這入って行くと、例の男はグデグデに酔っ払って食堂のソファーの上につぶれていた。――こうした事件は、僕の心の上に一番いやな印象をやきつけた。で僕は、その翌日、断然ダンニソープを引き上げることにした。なぜなら僕のいることが、僕の友達を困らすことになりはしないかと思ったからだ。
こうした事件はみんな、永い休暇の最初の月の間に持ち上ったのだ。僕はロンドンの自分の部屋に帰って来て、それから七週間ばかり、組織化学の実験を少しばかりやって暮した。と、秋が近くなり、休みが終りに近づいたある日、僕は、僕の友達から、ダンニソープへ来てくれと云う電報を受取ったんだ。そしてそれには僕の援助がぜひ欲しいと書いてあるんだ。無論僕は一切を放擲して再びダンニソープに向けて出発したさ。
彼は二輪馬車を以って停車場に迎えに来ていてくれたが、僕は一目見るなり、この二ヶ月の間に、彼はいろいろな大事件にぶつかったな、と云うことがすぐ分かった。彼は痩せて、憂欝になって、誰も知らないもののなかった彼のほがらかな愉快な様子は全く失われていた。
「親じが死にそうなんだ」
彼が云った最初の言葉はこれだった。
「そんなことはあるものか」
僕は叫んだ。
「どうしたって云うんだい?」
「卒中。――神経性虚脱だ。――一日中昏睡状態なんだ。とてももうだめだろうと思ってるんだ」
僕は、ワトソン、君も想像してくれるだろうが、この思いがけない話をきいて、全く驚いちまったよ。
「一体何が原因なんだい?」
僕はきいた。
「ああ、問題はそれなんだよ。――まあ、乗りたまえ。馬車の中で話せるから。――ホウ、君は、君が帰る前の日の夕方、やって来た男を覚えているだろう?」
「ああ、覚えている」
「あの日、僕たちの家に入れてやったあの男を、君は何ものだと思うね?」
「分からないね」
「彼奴《かやつ》は悪魔なんだよ、ホームズ」
彼は叫んだ。
僕は驚いて彼を見詰めた。
「そうなんだ。――彼奴《かやつ》は悪魔そのものなんだ。あれ以来と云うもの、僕たちはただの一日だって、平和だったことはありアしないんだ。親じはあの夕方以来、頭を上げたことがないんだ。そして今や、命をなくそうとしている。親じの心はこの呪うべきハドソンのおかげですっかり滅茶々々になってしまったんだ」
「どんな力を彼奴《かやつ》は持ってるんだろう?」
「それこそ、僕が知りたいと思ってることなんだよ。――ああ、あの親切な、情深い、人のよかった老いた親じ。――一体、どうしてあの親じが、あんな無頼漢につかまったんだろう? ――だが、僕は君が来てくれたので本当に嬉しいよ。ホームズ。――僕は君の判断と分別とに絶対信頼しているんだ。そして君は僕に、きっと一番いい方法を教えてくれるだろうと信じているんだよ」
僕たちは滑らかな白い田舎道を走っていった。僕たちの前には、広い川の長々と延びた流れを越して、沈みかかった太陽の赤い光りが輝いていた。僕たちの左手《ゆんで》にある森の上には、もう大地主であるトレヴォの家の高い煙突と旗竿とが見えていた。
「僕の父親は奴を庭番にしたんだよ」
と友達は云った。
「だが奴《やっこ》さんそれでは満足しなかったので、賄方《まかないがた》に出世させてもらったんだ。まるで家の中は彼奴《かやつ》の思うように左右されてるようなものなんだ。彼奴《かやつ》は家の中をぶらぶら歩き廻って、何でも自分勝手な事をしてしまうんだよ、女中たちは彼奴《かやつ》の酔っ払らいと乱暴な言葉使いに腹を立ててブツブツ云う。親じは仕方なしに、その不平を押えるためにみんなの月給を上げてやると云う始末なのだ。それなのに奴さんは、ボートを引っぱり出し、親じの一番いい鉄砲を持ち出して、打ちに出かけるんだ。しかもそう云う我が儘を、何んだか人を小馬鹿にしたような、いかにも意地の悪そうに見える横柄な顔をしてやるんじゃないか、僕はもし彼奴《かやつ》が、僕と同年輩ぐらいの男だったら、もう二十度は叩きのめしてやってるんだ。けれどホームズ、僕はこうした出来事のある間、じっと辛抱していた、そして自分が進んで何かことを起こすのは、悧巧《りこう》なことじゃないのだろうかどうかと、始終迷っていたんだ。
ところが事態は、ますます悪くなって行くんだ。この獣《けだもの》のような男のハドソンは、ますます出しゃばるようになって来て、とうとうしまいには、ある日のこと僕の目の前で僕の父親に傲慢な乱暴なことを云ったんだ。で僕はむっとして、彼奴《かやつ》の肩をひっ掴むと、部屋から外へほうり出してやったんだよ。すると彼奴《かやつ》は、真蒼な顔をして、毒々しい両眼にびっくりしたらしい表情を浮べて、ものも云わずに逃げてってしまったんだ。が、それからあとで、僕の哀れな親じと彼奴《かやつ》との間に、どんな交渉があったか知らないけれど、翌日親じは僕の所へやって来て、彼奴《かやつ》に詫びてくれるかどうかと云うんだ。無論君の想像通り断ったんだよ。そして僕は親じに、どうしてああ云う無頼漢に、親じに対してもまた家庭の内ででも、こんなに勝手なことをさせておくのかときいてみたんだ。
「ああ、お前!」
と親じは云った。
「話してしまえば、それが一番いいんじゃ。しかしお前は私がどんな立場にいるか知らんのじゃ、だが、今に話してやろう。ヴクトウ。今に、きっと話さなくてはならないような事件がおきて来ると私は思っとるのじゃ。お前はお前の可哀そうな年とった父親が、危害を加えられるなんて云うことは信じられないのじゃろうな、ねえお前?」
親じは僕の言葉にひどい打撃をこうむったようだった。その日一日部屋の中に閉じこもってしまった。そして僕が窓からのぞいて見ると、親じはいそがしそうに何かを書いていた。
するとその日の夕方のことだった。僕たちには大きな救いのように見えたことがもち上った。と云うのは、ハドソンが僕たちの家から出て行くと云い出したからだ。ちょうど僕たちはお八つを食べに食堂に集《あつま》った時、あいつは、ほろ酔い機嫌のしゃがれ[#「しゃがれ」に傍点]声で自分のその考えを云い出したのだ。
「もう英国の北の国にはあきあきしたよ」
と彼は云った。
「おいらハンプシャイアのベドウスさんとこへつっ[#「つっ」に傍点]走ろうかと思うんだ。あの人もたぶんお前さんと同様、おいらに喜んで会ってくれるだろうと思うんだよ」
「君は、何か感情を害して僕ん所から出て行くと云うんじゃないだろうね、ハドソン?」
僕の父親は云った。僕の血を煮えくら返すような屈辱的な馴れ馴れしい様子で。
「おいら詫びを云われなかった」
彼は僕のほうを意地悪そうにチラッと見ながら云った。
「ヴクトウ、お前はこの大切な客人を、失礼な扱い方をしていたとは思わないかい?」
親じは僕のほうを向いて云った。
「それどころか、僕たちは、こいつに出来るだけの辛抱をして来たと思っていますよ」
僕は答えたんだ。すると、
「おう、うぬ[#「うぬ」に傍点]ぬかしやがったな」
と彼は唸るように云った。
「野郎、よくもぬかしやがったな。覚えていろ!」
彼は足を引きずりながら部屋から出ていった。そしてそれから三十分の後、僕たちの家から出ていってしまった。気の毒なほど神経を病んでいる親じを後に残したまま。――それから毎晩毎晩、親じは自分の部屋の中を歩き廻っている足音を僕は耳にした。それはいよいよ打撃がやって来ると云うことを自覚したかのようだった」
「それからどうしたね?」
僕は熱心さを加えてきいた。
「全く思いもかけなかったようなことが起きて来たんだ。きのうの夕方だった、フォーディングブリッジの消印のある手紙が父親の所へとどいたんだが、それを読むと父親は、まるで気が違った人間のように、頭を両手で押えたまま、部屋の中をグルグルグルグル輪を書いて廻り初めたんだ。そうして僕が捕えてやっとソファの上へ腰かけさせた時には、親じの口も目も片一方引き吊って、まるですっかり気が顛倒《てんとう》していることが分かった。ですぐフォードハム博士に来てもらって、寝床の中へ運びこんだわけだ。けれど痲痺はいよいよひろがる一方で、意識を取り返えしそうもないのだ。僕は、もう到底だめだろうと思ってるんだよ」
「おそろしい話じゃないか、トレヴォ」
僕は叫んだ。
「その手紙に、何かそんな怖ろしいことを引きおこすようなことでも書いてあったのかしら?」
「なんにもないんだ。その中にはわけ[#「わけ」に傍点]の分からないことが書いてあるんだ。文句は下
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