ら川向ひの製材所に行つて、棺桶の板を持つて来よう、と云ふことにして、私たちは歩き出した。
飯場街で飼つてゐる豚だの、山羊だの、鶏だのは、平和に鳴いてゐた。
夏の大洪水で流された飯場の跡は、綺麗な砂浜になつてゐた。そこでは豚の児を引つ張り出して、万福位の、未だ学校に上らない年輩の子供たちが、その耳を掴んで、丸つこい背に乗つて遊んでゐた。豚の児が水溜りに入ると、子供たちは足を上げて水に濡らさないやうにしたり、水溜りから追ひ出すために、外の子たちが竹の棒でつつついたりしてゐた。
外の一群は山羊の仔と角力をとつてゐた。
山羊の仔は迷惑がつて、逃げようとするのだが、周りに一杯子供たちがゐるので、逃げることも出来ないで、のび上るやうに首を上げて、メーと鳴いたりするのだつた。
その砂浜は、幾度飯場を建てても、洪水の時に必ず流されて終ふので、今では、誰も諦めてしまつて、子供たちの運動場になつてゐた。
私たちは、そこを通りかかつた時、云ひ合はしたやうに、足を止めて、その戯れに眺め入つた。
子供たちの中には、太田を見付けて、
「おぢさん」と駆けて来て、半天の裾にブラ下るものもあつた。
太田は、子供にブラ下られると、その頭を撫でてやつた。そして、馬が蠅を追つぱらふ時のやうに首を振つた。
私もそのやうに首を振りたかつた。もし、万福の死の事が、そのために忘れられるのだつたら。
私たち二人は、そのことについて、一言も云ひはしなかつたが、万福の死について、申し訳が無い、と云ふことを、心の中に深く蔵ひ込んでゐた。それが直接の原因であらうと、全く関係がなからうと、とにかく、ハッパの石に当つて怪我をしたのだ。その後一月ばかりで「飯が食へなくなつて」死んだのであつた。
陽は汗ばむほど暖かかつた。
山羊と角力をとつてゐる子などは、汗をかいて、汚れた手で拭くので、真つ黒になつてゐるものもゐた。
いつまでも子等の遊びに見とれてゐる訳にも行かないので、川原から断崖の下の道に上つて、私達は上流に向つた。
飯場街と飯場街を繋ぐところに、やはりバラックの商店街があつた。
そこは停留場の真下三百尺位の、石崖の下で、発電所に近かつた。
そこで、私たちは太田の父に会つた。
太田の父は、何か憤つたやうな声で、太田に話しかけた。
私は一歩避けて、二人の話のすむのを待つてゐた。が、二人の話
前へ
次へ
全11ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング