スケット、足には下駄とな。チャンと此通り前のと同じなんだよ。いや、御無礼」
列車は、食堂車を中に挟んで、二等と三等とに振り分けられていた。
彼は食堂車の次の三等車に入った。都合の良い事には、三等車は、やけに混雑していた。それは、網棚にでも上りたいほど、乗り込んでいた。
その時はもう、彼の顔は無髭になっていた。
彼は、座席へバスケットを置くと、そのまま食堂車に入った。
ビールを飲みながら、懐から新聞紙を出して読み始めた。新聞紙は、五六種あった。彼は、その五つ六つの新聞から一つの記事を拾い出した。
「フン、棍棒強盗としてあるな。どれにも棍棒としてある。だが、汽車にまで棒切れを持ち込みゃしないぜ、附近の山林に潜んだ形跡がある、か。ヘッヘッ、消防組、青年団、警官隊総出には、兎共は迷惑をしたこったろうな。犯人は未だ縛につかない、か。若し捕ってりゃ偽物だよ。偽物でも何でも捕えようと思って慌ててるこったろう。可哀相に、何も知らねえ奴が、棍棒を飲み込みでもしたように、叩き出されかけているこったろう。蛙を呑んだ蛇見たいにな」
彼は、拷問の事に考え及んだ時、頭の中が急に火熱るのを覚えた。
そのために、彼が土竜のように陽の光を避けて生きなければならなくなった、最初の拷問! その時には、彼は食っていない泥を、無理やりに吐き出さされた。彼の吐いたものは泥の代りに血ににじんだ臓腑であった。
汚ない姿《なり》をして、公園に寝ていた、(それより外にどうする事が出来たのだ!)ために、半年の間、ビックリ箱の中に放り込まれた。出るとすぐ跟け廻され、浮浪罪で留置された。それが彼の生活の基調に習慣づけられた。
(どうせ、そうなる運命なら、それに相当した事をしなけりゃ損だ! 俺も打ん殴ってやれ!)
そうなるためには、留置場や、監房は立派な教材に満ちていた。間違って捕っても、彼の入る所は、云わば彼の家であった。そこには多くの知り合いがいた。白日の下には、彼を知るものは悉くが、敵であった。が、帰って行けば、「ふん、そいつはまずかった」と云って呉れる(友)がいた。
だんだん(仕事)は大きく、大胆になって行った。
汽車は滑かに、速に辷った。気持よく食堂車は揺れ、快く酔は廻った。
山があり、林があり、海は黄金色に波打っていた。到る処に(生活)があった。どの生活も彼にとっては縁のないものであった。
彼の反抗は、未だ組織づけられていなかった。彼の眼は牢獄の壁で近視になっていた。彼が、そのまま、天国のように眺める、山や海の上の生活にも、絶えざる闘争があり、絶えざる拷問があったが、彼はそれを見ることが出来なかった。
彼は彼一流の方法で、やっつけるだけであった。
夜の二時頃であった。寝苦しい夏の夜も、森と川の面から撫でるように吹いて来る、軽い風で涼しくなった。
本田家は、それが大正年間の邸宅であろうとは思われないほどな、豪壮な建物とそれを繞《めぐ》る大庭園と、塀とで隠して静に眠っているように見えた。
邸宅の後ろは常磐木の密林へ塀一つで、庭の続きになっていた。前は、秋になると、大倉庫五棟に入り切れないほどの、小作米になる青田に向っていた。
邸後の森からは、小川が一度邸内の泉水を潜って、前の田へと灑がれていた。
消防組の赤い半纒を着た人たちや、青年会の連中が邸内のあちこちに眠そうな手で蚊を叩いていた。
本田家の当主は、家族の者と主治医とに守られて、陶製のもののように、何も考えることも感じることも出来なくなった頭を、氷枕と氷嚢との間に挟んでいた。
家族の人たち、当主の妻と、その子供である、二人の息子と三人の娘とは、何かを待つような気持を、どうしても追っ払うことが出来なかった。
当主は、寝ている処を、いきなり丸太ん棒、それも樫の木の、潜り門用の閂でドサッとやられたので、遺言を書こうにも書くまいにも、眼の覚める暇がなかったのであった。
で、家族のものは、泣きながら食卓の前に坐らされている、腹の空いた子供のような気持を、抱かない訳には行かなかった。
陰気であった。が、何だか険悪であった。線香をいぶすのにも、お経を読むのにも早過ぎた。第一、室が広すぎた。余り片附きすぎてとりつき端がなかった。退屈凌ぎに飲食することは、前祝いのようで都合が悪かった。
不思議な事には、子供たちは誰一人、眼を泣きはらしていなかった。
本田富次郎の頭脳が、兎に角物を言う事の出来た間中は、彼は此地方切っての辣腕家であった。
他の地主たちも、彼に倣って立入禁止を断行した。そして、累卵の危きにある(地主の権利)を辛うじて護る事が出来た。小作人どもは、ワイワイ云ってるだけで、何とも手の下しようがなかった。大抵目ぼしい、小作人組合の主だった、(ならず者ども)は、残らず町の刑務所へ抛り
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