ますます淋《さび》しさを感ずるようになった。部屋が広すぎた。松が忍び足のように鳴った。国分寺の鐘が陰《いん》にこもって聞こえてくるようになった。
 こういったふうな状態は、彼をやや神経衰弱に陥れ、睡眠を妨げる結果に導いた。
 彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を緘《かん》していた。彼にはまるで興味がないように見えた。
 どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味な淋しい状態からは、先に神経衰弱にかかるのが至当であるはずだった。
 色の青白い、瘠《や》せた、胸の薄い、頭の大きいのと反比例に首筋の小さい、ヒョロヒョロした深谷であった。そのうえ、なんらの事件のない時でさえ彼は、考え込んでばかりいて、影の薄い印象を人に与えていた。だが、彼はベッドに入ると直ぐに眠った。小さな鼾《いびき》さえかいて。
 安岡は、ふだん臆病《おくびょう》そうに見える深谷が、グウグウ眠るのに腹を立てながら、十一時にもなれば眠りに陥ることができた。
 セコチャンが溺死して、一週間目の晩であった。安岡はガサガサと寝返りを三時間も打ち続けたあげく、眠りかけていた。が、まだ完全には眠ってしまわないで、夢の初めか、現《うつつ》の終わりかの幻を見ていると、フト彼の顔の辺りに何かを感じた。彼の鋭くとがった神経は針でも通されたように、彼を冷たい沼の水のような現実に立ち返らせた。が、彼は盗棒《どろぼう》に忍び込まれた娘のように、本能的に息を殺しただけであった。
 やがて、電燈のスイッチがパチッと鳴ると同時に部屋が明るくなった。深谷が寝台から下りてスリッパを履いて、便所に行くらしく出て行った。
 安岡の眼は冴《さ》えた。彼は、何を自分の顔の辺りに感じたかを考え始めた。
 ――人の息だった。体温だった。だが、この部屋には深谷と自分とだけしかいない。深谷がおれの寝息をうかがうわけがない。万一、深谷がうかがったにしたところで、もしそうなら電燈のついた時彼が寝台の上にいるはずがない。そしてあんなに大っぴらに、スリッパをバタバタさせて出てゆくはずがない。第一、なんのために深谷がおれの寝息なんぞうかがう必要があるのだ! おれは神経衰弱をやっているんだ。幻だ。夢だ。錯覚なんだ!――
 こう思って彼は自分自身を納得させて、再び眠りに入ろうと努めた。
 深谷はすぐに帰ってきて、電燈を消した。そしてベッドに入ると、間もなくかすかな鼾《いびき》さえ立て始めた。
 安岡は自分の頭が変になっていることを感じて、眼をつむって、息を大きくして、頭の中で数を数え始めた。
 一、二、三、四、
 五十一、五十二、
 四百、四百一、四百二、
 千二百十、千二百十一、千二百十二、
 彼のやや沈静した頭が、千二百十二を数え終わった時、再び彼は顔の辺りに、人間の体温を感じた。が、彼はこんどはいきなり冷水をぶっかけられたように、ゾッとしはしたが千二百十三、千二百十四と、数珠《じゅず》をつまぐるように数え続けた。そして身動き一つ、睫毛《まつげ》一本動かさないで眠りを装《よそお》った。
 電燈がパッと、彼の瞼《まぶた》を明るく温めた。
 再び彼の体を戦慄《せんりつ》がかけ抜け、頭髪に痛さをさえ感じた。
 電燈がパッと消えた。
 深谷が静かにドアを開けて出て行った。
 ――奴《やつ》は恋人でもできたのだろうか?――
 安岡は考えた。けれども深谷は決して女のことなど考えたり、まして恋などするほど成熟しているようには見えなかった。むしろ彼は発育の不十分な、病身で内気で、たとい女のほうから言い寄られたにしても、嫌悪《けんお》の感を抱《いだ》くくらいな少年であった。器械体操では、金棒《かなぼう》に尻上《しりあ》がりもできないし、木馬はその半分のところまでも届かないほどの弱々しさであった。
 安岡は、次から次へと深谷のことについて考えたが、どうしても、彼が恋人を持っているとは考えられなかった。それなら……盗癖でもあるのだろうか?
 だが、深谷は級友中でも有数の資産家の息子であった。それにしても盗癖は違う。いくら不自由をしない家の子でも、盗癖ばかりは不可抗的なものだ。だが、盗癖ならばまず彼がその難をこうむるべき手近にいた。且《か》つ近来、学校中で盗難事件はさらになかった。
 下痢かなんかだろう。
 安岡はそう思って、眠りを求めたが眠りは深谷が連れて出でもしたように、その部屋の空気から消えてしまった。
 おそらく、二時間、あるいは三時間もたってから深谷は、すき間から忍び入る風のように、ドアを開けて帰ってきた。
 部屋へ入ると、深谷はワザと足音を高くして、電燈のスイッチをひねった。それから寝台へもぐり込む前に電燈を消した。
 安岡は研ぎ出された白刃《はくじん》のような神経で、深谷が何か正体をつかむことはできないが、凄惨《せ
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