るではないか。若しそれは少数者のみであつて万人ではない、と云ふならば、万人がさうなつた時、諸君の望んでゐた物質的栄華はどこを見ても無くなるだらう。
 兄弟よ。富や悦楽は相対的なものである。それを追ふのは、自分の影を一生懸命追つ駆けるのと同じことだ。
 富を追ふことにわれ等の意志が有るとすれば、われ等は資本家に何を要求し、何の故を以て恨む処があるか。彼はかう答へるであらう。「俺にも未だ充分な富はない」と。
 われ等は富を追はないで、貧を追ふために、そこにこそたゞ一つ神の国に入るの道が残されてゐるのである。われ等は決して資本家の富を奪還しようとするのではない。われ等の虔譲なる生命までも彼が拒否しようとすることを詰《なじ》るのである。
 資本家諸子よ。労働者も人間である。虔譲なる神の子である。人間として同胞として、等しく日本国民として、彼等に良心を以て対せられよ。諸子が若し彼等を恐れ疎遠して、彼等を生命の不安に突つ込むならば、責任は諸子の方にあるのである。諸子は枯尾花を幽霊と思つてはならぬ。況して人間を獣と見てはならぬではないか。

     ○

 現世に極楽が来り、地上に天国が齎されるのは何時か。それは地上の人類が眼覚めることによつて即座に出現されるのである。
 この考へを空想と嘲り、夢だと笑ふことによつて、人類は自分自身の神の国を、悪魔の祭壇に供へてゐるのである。
 この迷蒙を捨ることが一人でも多くなればなるほど、神の国は近づいて来るのである。
 釈尊やクリストが地上に現れて神の国の理想を説いてから二千年乃至三千年になる。それにも拘らず人類は些《すこし》も神の国に近づかうとしない、などと遁口上《にげこうじやう》を言つてはならない。仏の慈悲、神の愛を知つたものは、知つただけで、神の国へ近づいてゐるのである。
 兄弟よ。悪魔のあらゆる誘惑を斥けて、神の国に進まう。われ等の体の中には、神と悪魔が同居してゐるから、神のみを見なければならぬ。
 兄弟よ。神を知り、神の御名《みな》による天国を地上に齎さうではないか。
 爾《なんじ》、国《みくに》を来らせ給へ、御心の天に成る如く地にも成らせ給へ。
[#地から1字上げ](大正十年六月)



底本:「筑摩現代文学大系 36 葉山嘉樹集」筑摩書房
   1979(昭和54)年2月25日 初版第一刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野裕
校正:高橋真也
1999年10月17日公開
2006年2月3日修正
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