に幸福を欲するのであるから、自分自身を不幸にすることを避ける。
然し、他の人が不仕合な生活をしてゐることは、進んで犠牲になると云ふ覚悟のない人にも、決して快よい感じは与へないのである。そこで「どうせ今の世の中は利己主義が勝つんで、俺が社会改良運動に携つて目玉を剥いて見た処で何にもなりやしないんだ。人類の多数は矢つ張り不幸なんだ。詰り俺は、俺は詰りその、俺さへ良けりやそれでいいんだ」と、考へたくなるのである。
人は分れて行く。各《おの/\》の道を求めて果しのない迷路へと離れ離れに進んで行くのである。
三
兄弟よ。梅雨らしい空が、陰鬱にわれ等の頭を押しつけてゐる。
われ等は暗い空と、資本主義の大磐石の下に永久に喘がねばならぬであらうか。われ等はどのやうに焦つても、どのやうに駆けて見ても此地上以外には住めないと同じやうに、あらゆる社会悪の圧迫以外に首を擡《もた》げることは能きないだらうか。
兄弟よ。沢庵漬は上に加はる圧迫が大きければ大きいだけ、お互に密着《くつつ》き合ひ緊《ちゞ》めつけ合ふのである。が、労働者は沢庵であるか。
兄弟よ。われ等の運命は沢庵である。すつかり食ひ物にされるのである。資本家はいろんな贅沢な食ひ物に飽いては、「これに限る」と云つて、われ等沢庵を食ふのである。彼等の食ひ物は沢庵に初まつて沢庵に終るのである。そして彼等の偉大なる顎と、臓腑とは今の処食ひ過ぎの為病気を起しさうな模様は無いのである。
兄弟よ。上からの圧迫が重いとお互の間の関係は、恐ろしく窮屈になる。互に足を踏み合ふ。肩と肩とが打つ衝り合ふ。けれどもそれは沢庵の知つたことでは無いのである。重しがさうさせるのである。窮屈だからと云つてお互に喧嘩してはならない。世界は樽の中の、われ等萎びた大根と、糟と、それだけつ限《き》りのものではないのである。
資本家及び資本家の傀儡たる重し共は、無数に並んだ沢庵桶の側《そば》で、われ等の見る世界とは似てもつかぬ世界を見てゐるのである。沢庵より上る利益の計算のために必要な算盤や、コムパス達は、今日《こんにち》の土曜と明日《みやうにち》の日曜とを利用して、魚釣《うをつ》りに出かけるのである。
彼等にとつては、われ等はたゞお互に押つけ合つて汁を出してさへゐればいゝのであつて、われ等が生き生きした清新な大根であることは怖るべきことなので
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