ちの間に泣くということは見られないことであった。
 ボーイ長は歯を食いしばって、嗚咽《おえつ》を止めようとした。そして厚い礼も言いたい。彼らの今後の行動の予定も知りたい。どうすればどこで会えるか、その方法も知りたい。また取りあえずの所書きももらって置きたい。自分の所書きも渡したい。ああも、こうもしたかった。それだけなおさら、彼の涙は、あふれ落ちた。彼の泣き声は食いしばった歯の間から、鋭くもれた。
 藤原のほとんど冷酷な、動いたことのない意志そのもののような目の中にも、重く、鋭く、悲しみがひらめいた。
 波田も歯を食いしばった。そして力をこめてボーイ長の手を握った。そして、
 「からだを大切にして、早くなおりたまえね」と言った。が、彼は、自分たちが去ったあとではボーイ長はどうなるだろう、その傷や病《やまい》はだれが気をつけるのだろう、と思っては、「なおりたまえ」という言葉さえも惨酷な言葉であったと思うのだった。打っちゃらかしといて、どうしてけがや病がなおりうるか、だれがこの責任を負うのだ! と思うて、彼は思わず涙のにじみ出るのを覚えた。そして彼の心は、ますますのろいの焔《ほのお》を強く燃え立たせた。
 「またどこかで、会うこともあるだろう。それまで、お互いに丈夫でいようよ、じゃ大切にしたまえ、さようなら」藤原は一握して立ち去った。
 「からだを大切にしてください。さようなら」とボーイ長はいって、その枕《まくら》に頭を埋《うず》めた。「さびしいなあ」彼は、止め度もなくあふれる涙の中へ顔をいつまでも埋めていた。
 「資本主義制度は、くもの巣みたいに、おれたちを引っくるんでいるんだ。どうあがいてもそれは気味悪くからみついて来るばかりだ、畜生! 今に見ていろ土ぐもめ!」藤原は考えながらデッキを大またに歩いた。
 サロンには、船長以下メーツらは、その装飾した上陸姿を並べていた。
 警察の巡査は後ろの方に立っていた。
 「フン、無意識的にブルジョアやその(以下十四字不明)、(以下十字不明)!」藤原はその情景を外からながめて感じた。
 波田は、全身の血が頭に逆流した。彼は、心臓でもえぐるように、船長の顔に燃えるような目を注いだ。
 船長は、しかし、今は充分に「因襲的尊厳」の鎧《よろい》を着て、旗、差し物沢山で控えていた。
 一同は、その各《おのおの》の、行李をサロンの出入り口へ投げ出して、一様に不愉快な気持ちを抱《いだ》いてそこへ行った。
 「皆そろったね」と船長はチーフメーツに言った。
 「ええ、これで全部です」チーフメーツは答えた。
 「それじゃ、いい渡してください」
 「ボースン、小倉、宇野、西沢、とこの四人は、下船命令、藤原、波田も同様皆、僕と一緒に海事局まで行ってくれ、それから、藤原と波田とは海事局には行かないでよろしい。手帳はあとで渡すから。二人《ふたり》は警察の方で用事があるそうだから」それが宣告であった。そして彼は、つけ加えを忘れなかった。「だから、おれが室蘭で、よした方がいいと言ったんだ。お前らが、いくら威張ってもあかん。それよりおとなしくした方が得だ。おとなしくしとれば、人の憐《あわれ》みもかかるが、強いことをいうと、こういう際にだれも相手になり手がないからな」
 「自分によくいって聞かせとくがいいや、おれらのことならお世話にゃならないや。道が異《ちが》ってるんだからなあ。そのうちどんなお礼をするか覚えてろ!」波田は怒鳴りつけた。
 「あれが波田ってやつです。あんな乱暴なやつです!」船長が言った。
 「何を! べら棒め! 死にかけた人間を打っちゃらかしとくようなやつが、人のことがいえるかい。手前《てめえ》より乱暴なやつはねえんだぞ、圧搾器め!」波田は船長をも怒鳴りつけた。
 「マ、せいぜいあばれて、警察で油をしぼられるがいいさ」船長は言った。
 「おれの出て来るまで、手前は丈夫で生きているように、おれは祈ってらあ。途中で燃やされちゃわねえように気をつけな」
 だが、船長は、早速《さっそく》引っ込んでしまった。
 チーフメーツは、ボースン、小倉、宇野、西沢を連れて、二人の警官と共に海事局に行った。
 彼らはそこで物の見事に首を馘《き》られた。
 これが十二月三十一日だ。
 藤原と波田とはランチで水上署へ行った。
 正月の四日までは警察も休みだった。従って、藤原と波田は、留置所の中で正月を休むことができた。
 彼らは正月の仕事初めから、司法で調べを受けた。そして治安警察法で検事局へ送られた。
 検事は彼らを取り調べるために、彼らを監獄の未決監に拘禁した。
 彼らには面会人も差し入れもなかった。あたかも彼らは禁錮《きんこ》刑囚のように、監房の板壁をながめた。
 食事窓や、のぞき窓や、その他のすき間からは、剃刀《かみそり》の刃のよ
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