が一様に水を欲しているように、――陸上における、陸上であれば木賃宿でもいい、生活に飢えていたのだった。それに、そこは正月ではないか。そのために彼らの足は地についていなかった!
本船は、立派に化粧して入港するのだ! 船は二、三日|碇泊《ていはく》するんだ。いくらかの月給のほかに、手当があるはずだ! あそこに行こう、ここに行こう、おれは東京まで行って来よう! 種々《いろいろ》に彼らは考えていた。
高い鉄の窓、あるいは高い赤い煉瓦《れんが》の塀《へい》を越えて、囚人が社会の空を望む時に、彼らはそこに実際以上の自由があり幸福があるように考えると、ドストエーフスキーは言ったが、それは全くうまいことをいったものだ、それと同じく船のりたちも、陸には実際以上の憧憬《どうけい》を持った。彼らは、それが陸上でさえあればどんな幸福でもありうると、彼らが陸にいて苦しさのあまりかつては、海へ逃げ出したことさえも忘れて思うのであった。あの時分と今とは変わってるだろうと、またあの時分はおれがまずかったんだと。彼らは、夜の入港のように、陸の醜悪な事実を一切|闇《やみ》のおおうにまかせて、その明るい、港の魅惑的な燈火にあこがれてしまうのであった。そのくせ彼らは、どの上陸の際でも陸上の生活が、彼らと非常に縁遠いものだということを感じさされた。それはちょうど、陸上のすべての事物や人が、彼を突っ放すのだと感ぜずにはいられないのだった。
それは左ねじの電球が、右ねじのソケットにはまらないのと同じく、彼らを専門的にし、不具的にしたのだ。
万寿丸は一晩港外に仮泊しないでも済むように順序よく、進んだ。尻屋《しりや》の燈台、金華山《きんかざん》の燈台、釜石《かまいし》沖、犬吠《いぬぼう》沖、勝浦《かつうら》沖、観音崎《かんのんざき》、浦賀《うらが》、と通って来た。そして今|本牧《ほんもく》沖を静かに左舷《さげん》にながめて進んだ。
水夫たちはフォックスルにスタンバイしていた。雪もよいの風は鋭く頬《ほほ》を削った。その針はどんな防寒具でも通すのだから、水夫らの仕事着などは、蚊帳《かや》のようであった。彼らは、雨も雪も降らないのに、合羽《かっぱ》を着ていた、それは寒さをも防ぐし、軽くもあるのだ。そして飛沫《ひまつ》をも除《よ》けることができるのだ。
十二月三十一日、午前九時――全く、うまく行ったものだ――万寿丸は横浜港内深くはいって、ほとんど神奈川《かながわ》沖近くへ投錨《とうびょう》した。
本船が港内にはいるや、すぐに会社からのランチが、本船のまわりを水ぐものようにグルグル回りながらついて来た。
それは十二月三十一日であった。大晦日《おおみそか》であった。それは、いかなる労働も休んでいるはずであった。けれども、その当時は戦争が、ヨーロッパにおいて行なわれていた。そのために、狂的な経済的好況が、日本のブルジョア階級を、踊り菌《たけ》でも、食った人のように、夢中に止め度もなく踊り狂わせた。そして、その有頂天な踊りと、そのための労働者へ対しての節欲とが、その大晦日に、仲仕をして石炭荷揚げをなさしめた。すなわち、万寿丸には、仲仕が、ランチにひかれた艀《はしけ》の中に満載されて送りつけられた。仲仕――権三といわれていた――は、特別の賃銀を支払われると言う約束で、明日《あす》のお屠蘇《とそ》の余分の一杯をあてにしてやって来たのだ。
人足の艀《はしけ》は本船へつけられた。ロープを伝って猿《さる》のように駆け上がる。彼らは、ただ競争するのだ。そのために得るところは彼らを駆って過度労働に追い込み、資本家をしてより一層その財布を重くせしめるだけのことだ。だが、彼らはわれ先にと飛び上がる!
万寿丸は荷役を初めそうに見えた。ウインチは仲仕らにかかってはむやみに手荒く取り扱われる。バルブ明けっ放しで、ハンドル一つのゴーヘーゴースターンだ。
私はこんなふうに書いていたら、切りがないだろうということに気がついた。私はまだ船長と三上とが、室蘭で同じ女郎を買い当てて兄弟になったということも、書くつもりでいた。が、そんなことは別に不思議なことでも珍しいことでもない。やめてしまおう。
ランチから、会社員が船長室へはいって行った。そこで、彼らはコーヒーを飲みながら、なにか話した。
船長は、水夫らの「不都合なる行為」について厳罰を与えようと、室蘭においてすでに決心していた。で、彼は会社から来た社員に対して、簡単に「水夫たちがいかに不当な要求を、横着な態度でした」かを話した。だから、彼ら、水夫ら全部を下船させると同時に、引っ縛ってやる必要がある。「ついでに三上の伝馬《てんま》事件も告発するつもりである」ことを、彼は告げた。だから、「会社へ帰ったら、秘書課長へその由を伝えて置いてもらいたい」と言う
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