持ってることは、もう言わなくてもわかってるだろう。サア! くだらない筋だの、金ピカだのを除《と》って、人間として、人間の要求に応ずるがいい」
 波田はその椅子の上へ、ドカッと腰をおろした。そしてシーナイフを藤原の前から取って彼の尻《しり》っぺたにブラ下がっている、その帆布製の鞘《さや》に収めた。
 人々は初めてホッとした。彼がライオンのように、あばれ回らなくて幕になったことが、だれもを安心させた。実際、それはまあよかったとだれもを感じさせた。
 船長は、まるで、ばかにしたような態度を、要求書へ向けていたのだが、今では、それが非常に尊いものででもあるように、チーフメーツの前から、自分の前へ引き寄せて、ながめ初めたのであった。この紙っきれに、あの情熱と憤懣《ふんまん》とが織り込まれてあったのだ! 彼は、それを引き裂かなかったことを今になって喜んだ。
 それを引き裂きでもしていようものなら!
 「それで、その要求書にある条項を、一々説明しましょうか、もし、お求めになるならば」藤原は言った。
 「いいや、説明には及ばないだろう。大抵わかってるだろうから。しかし、一応メーツたちと相談しなければならないから、お前たちは、ここでちょっと待っててもらいたいね。ちょっと相談をして来るから」と藤原へ言って、「どうぞ私の室まで」とメーツらに目くばせをして、彼は船長室へ又候《またぞろ》はいって行った。メーツらは続いた。
 「波田ってやつあ、どえらいやつじゃねえか」とサロンの外では、波田の行動に対して、賞賛の辞を惜しまなかった。「あれに限るよ。あれで行きゃ、こちとらだって、いつでもこんなに苦労しなくても済むんだが」
 「そうさ、力の強いのが勝つんだ。おれたちゃのまれてるんだ」などと火夫たちは、その場から去ろうとはしなかった。
 水夫たちは、相手がいなくなったので、極度の緊張から解放されて、煙草《たばこ》に火をつけて、休憩した。
 「どうだい、ボースン、お前の代わりまでいいつけられたじゃないか」波田は、ボースンの方を向いて言った。ボースンは、まるで、ひどく頭でも打たれた者のように、ボンやりしていた。出し抜けに船長を斬《き》ったりするやつは、彼も見たことがあったが、口も手も、これほど達者なやつは見たことがなかった。「それにやつはまだ子供じゃないか」ボースンは、びっくりしてしまっていた。「いや、どうも知らなんだ」そのはずであった。
 波田は、酒も飲まず、女郎買いもせず、おとなしくして、よく仕事をする評判な青年だったのだ。「全く、人は見かけによらないものだ!」
 「え、どうだいボースン?」今度は藤原がぼんやりしてるボースンにきいた。
 「え、ああ、おれあぼんやりしてたよ」彼はほんとにぼんやりしていた。
 「冗談じゃないぜ、しっかりしてくれよ。皆大汗で働いてるんじゃないか」
 西沢と小倉と宇野と波田と、この四人は交渉条件のことについて、何かしきりに話し合っていた。
 そこへテーブルの上へ、機関部のボーイ長が、紙っきれを持って来て載せた。そして「これを機関部から」といってそのまま、逃げるようにして飛んで行った。
 西沢は、その紙っきれを開いて見た。
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フントウ ヲ シャス、セイコー ヲ イノル、キカンブカフ 一ドー セーラー ショクン
[#ここで字下げ終わり]
と電報文みたいに片仮名で書いてあった。
 彼らはそれを見て、戸口の方を向いて、手をあげて合図をした。
 「徹底的にやれ、罷業《ひぎょう》になれば、火は焚《た》かんから」戸口の外からだれかが怒鳴った。
 四人はそれを藤原に見せた。彼は「ありがとう」と叫ぶのを忘れなかった。
 やがて、船長室に密議を凝らしに行ったメーツらはサロンへ引っかえして来た。
 要求条件には念入りにも、船長と、チーフメーツとの判が並べておしてあった。
 「皆と相談の結果、要求を容《い》れることにしたから、今からすぐに働いてもらいたい、ボーイ長は、横浜着港と共にすぐ入院させるし、その他の条件も、即時実行することにしたから」船長は、低い声で言った。彼は自ら進んでこの条件を、認容したのだといったふうに、見せかけたかったが、あまりにも狼狽《ろうばい》した彼にはその方法もできなかった。
 「バンザーイ」「態《ざま》を見ろ!」「労働者フレーフレー」などといいながら扉の外の火夫たちは、ドヤドヤと立ち去った。
 「それじゃ、今からすぐに仕事にかかってくれ」チーフメーツは言った。
 「ヘー、かしこまりました」ボースンは答えた。
 「どうもありがとう存じました」藤原は、判のおされた要求書を、ポケットに収めながら言った。
 彼らはおもてへ帰って行った。
 水夫らは勝利を得た。だが、何だか物足りない感がだれもの、心のすみにわだかまっていた。
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