置かなかった。
彼らは、おもてからロープをおろしてもらって上がった。
彼らが、皆まだ上がり切らないうちに、コーターマスターが飛んで来た。
「伝馬はそのままにしといて、ボースンにすぐ来いって、船長が」とボースンにいって、
「オイ、ボースン、気をつけないと、まっ赤《か》になって憤《おこ》ってるぜ」
ボースンは、女房と、六人の子供が、打ち上げられた藻屑《もくず》のように、ゴタゴタしている、自分の家庭のことを思い出してしまった。「こいつあしまった。行かなきゃよかった」と、彼は思った。深刻に彼は悔いた。悪いと思ってでなく、より悪いことの誘因になったことを、彼は、……頭をデッキへ打《ぶ》っつけたかった。……心臓がまるで肋骨《ろっこつ》の外側についてるように、彼は、動悸《どうき》がした。捕《つか》まった犯罪人のように、彼は、自分の運命が決定したことを直感した。彼は、その破滅に瀕《ひん》した自分の家で、疲れ衰え弱った、妻や、子供らと一緒に飢え凍えている状態を想像して、震えながら、船長の所へと行った。
彼の共犯者? たちも、霜寄りした魚のように、一つところに集まって「困った」のであった。三上だけが一人《ひとり》その中で、昨夜はいかにして遊んだかということを、仲間の者に発表する勇気と、発表せざるを得ない衝動とを持っていた。
その話によると、若い船員たちにとっては、その歓《よろこ》びを得たことは、そのために首を切られることがあるにしても、なおかつ非常にいい、得難いことであった。なぜかならば、
三上はこう説明した。「ほんとに、自分の亭主のように親切にした」と。
彼らは、人間の「愛」には、うそにもほんとにも、沙漠《さばく》のように渇《かわ》き飢えていたのだ。沙漠にオアシスの蜃気楼《しんきろう》を旅人が見るように、彼らは「愛」の蜃気楼さえをもさがし求めたので。それは「愛」の形骸《けいがい》であったかもしれない。しかも彼らは、それ以上のものを知らなかったのだ。彼らは、そこへ持って来て、原始的な制度の残っている、いくらか何か真実らしいもののある――それは、彼らの幻影と、極端な想像とから来たものであろう――「愛」の一夜を過ごしたのだ。
彼女らが、彼らに、ほんとに人間として、仲間として接近された時、彼女らも、時としては、その夜、強い反抗と、自暴自棄とから、涙の多いその女性としての一面をフト、見せることがあるものだ。それは、よくないことであろう。だが、それから先には、なおらないであろう。
船長はサロンに待っていた。チーフメートもそこにいた。セコンド、サードもそこにいた、陳列されたように頭をそろえていた。船長はそれらの人間にとっても、犯すことのできない人間であった。従って、ボースンなどは「陪臣」であった。
ボースンは落ちて来た煙火《はなび》の人形のように、ガッカリしていた。彼は、ドーアのところへ立って、マゴマゴしていた。彼はためらっていたが、死のような沈黙と、屍《かばね》のような冷たい目とが、集まっていたので、そのまま思いを決めて、中へはいった。
そこは、まるで法廷のようであった。そこでは、善人と悪人とは決定されてあった。
ボースンのしたことは、論ずる余地がなかった。
「お前に下船を命ずる! 今からすぐに。荷をまとめて、あの伝馬で上陸して行け、合意下船ではないぞ、下船命令だ! それでよろしい」
きわめて簡単であった。抗弁もなかった。ありもしなかった。余裕もなかった。船長は自分の室へ、赤くなった目を休めに引っ込んだ。それぞれメートらも幽霊のごとく引き取った。
ボースンはおもてへかえった。そして、どっかと自分の寝箱の中へ、からだを投げつけた。一切は決定した。ボースンは業務怠慢で下船命令を食ったから、一年間乗船を海事局の名によって停止されるのだ。それだけの事実なのだ!
悲惨なる事実は、新聞の三面に「死んだ人」の欄に一括して載せられる。ブルジョアの結婚が破れたことは、全紙を数日間にわたって埋《うず》める。それだけのことなのだ!
(以下十九字不明)凍死し、飢え死にし、病死し、自殺し、殺戮《さつりく》されることは、その状態なのだ! (以下七字不明)! もし、新聞や、その他の社会が事実を顛倒《てんとう》してると考えるならば、それは、君が資本主義の社会を見ていないからだ。
もし、それらの悲惨なる事実がなかったならば、それらの悲惨事の上にのみ建つ、ブルジョアの社会建築はどうなるのだ。それは、だから、実は悲惨事ではないのだ。貧窮のために死滅して行くことは、すこしも悲惨ではないのだ。死滅して行くほどに多数が貧窮であるからこそ、これほど、ブルジョアが富んでいるんだ!
だから、一切は、最上の状態なので、「これを動かしてはならない!」のだ。
ボースン
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